虫送りとサネモリ

 虫送りは、初夏の田植えが終わった頃の行事である。地区住民が寺社に集まって祈祷をした後、地区内の水田をまわってウンカなど稲の害虫を集め、川や村境から送り出すというのが一般的な形式である。虫送りには、サネモリ様などと呼ばれる巨大な藁人形が登場することがある。ただ、徳島県の事例では現存する人形のサネモリ様はない。しかし、唱え文句の中にはサネモリが登場し、その存在を意識しながら虫送りが行われる。
 海陽町樫ノ瀬地区の虫送りの事例を紹介する。まず、樫ノ瀬地区の高西寺の本堂に住民が集まり、住職による読経が行われる。虫送りの際、持ってまわるヤリ(槍)、ナギナタ(長刀)、ムシイレ(虫入れ)、ゾウリ(草履)、ベントウ(弁当)、タンザク(短冊)、ヨリシロ(依り代)、ゴキトウフダ(御祈祷札)を用意する。いずれもサネモリの持ち物とされるものである。このうち、ムシイレ(虫入れ)は、50センチほどの竹の先に、竹を切って筒状にし、その節に虫を入れたものを取り付ける。ムシイレには実際にオガ(カメムシ等)を入れ、サトイモの葉で蓋をしておく。 読経が終わると参加者それぞれが道具をもち、高西寺本堂前の広場に出て、一列になって右回りに回る。列の先頭に笹竹をもったサキバライ、住職、次いでカネ(鉦)、タイコ(太鼓)、ゾウリ、ベントウ、ゴキトウフダ、ヤリ、ナギナタ、タンザク、ヨリシロを持つ人が続く。  虫送りの行列は、次のような唱え文句を唱えながら進む。「サイトコ ベットコ ウッテントン イネノムシャー トサヘイケー」。この唱え文句は斎藤別当(斎藤実盛のことを指す)が転んだ、稲の虫は土佐へ行けという意で解釈される。また、この唱え文句の末尾に「土佐の次は伊予へ行け」といった文言が加えられることもある。
 高西寺境内を右回りに一周回った後、樫ノ瀬地区の集落、水田の畦道を列になって進み、海部川の川原へ向かう。海部川の川原に到着すると、道具をすべて川に流した後、一行は高西寺へ戻る。この後、高西寺では、虫送りに参加した一同と地区住民が会食し、虫送りの行事は終わる。
 なぜ虫送りにサネモリが登場するかについては、次のような伝承が樫ノ瀬地区をはじめとして各地にある。平安時代末期、平氏の一軍として戦った斎藤実盛(さいとうさねもり)が、源氏(げんじ)木曾義仲(きそよしなか)方の武将に討ち取られた際のエピソードに由来する。老齢ながら奮戦した実盛だったが、馬が稲株につまずいて転倒したところを、源氏方の武将に討たれて無念の死を遂(と)げたとされ、その死の原因となった稲を祟(たた)って害虫になって現れるとされる。そのため、その稲の虫を集め、ムラの外へ送ることで、稲などの虫害を防ごうとするのが虫送りの目的として説明されるのである。
 ところで、サネモリが登場する虫送りの唱え文句は徳島県内各地で見られた。「実盛虫はどこへ行った 西のはてまで 後さらえ ドーンドン」(『半田町誌 下巻 経済・文化・民俗』)とか、「斉藤実盛様のお通りじゃ、飛べるムシャ飛んで来い、這えるムシャ這って来い。」(『阿南市史 第五巻(自然環境・民俗)』)など地域によってバリエーションがある。  
 サネモリは、人形として実存するかしないかにかかわらず、特別な存在として意識され、虫とともにムラの外に送り出される存在であった。
 
写真1 高西寺境内での虫送り行列,2005年6月撮影
 
写真2 虫送りの採り物を海部川に流す,2005年6月撮影