書評 正富博行『石刻の農耕神―その発生と展開―』

正富博行『石刻の農耕神―その発生と展開―』(吉備人出版 2011年4月刊 B5判 総243頁) 1,800円(税別)
紹介者:磯本宏紀

 本誌7号(2009年3月刊)での特集「地神信仰」の中で、「石造物『地神碑』建立の契機」を寄稿された正富博行氏が、歴史・民俗関係図書、郷土書を多数手がける岡山市の出版社から刊行された本である。2001年の『岡山の地神様』発行以後、長年にわたって継続されてきた「地神様」、農耕神に関するフィールドワークの集大成ともいえるのが本書である。
 そのフィールドは広い。県名をあげるなら、神奈川、千葉、徳島、大分、福岡、岡山、愛媛、島根、鳥取、京都、香川、山梨、埼玉、東京、三重、広島、群馬と並び、関東、中国、四国、北九州の各地方を中心に見据えている。石刻の農耕神の出現、展開、拡大、高揚、定着、終息に時期区分をして整理する。その時期とは、18世紀中頃から20世紀初頭の間、すなわち天明期から明治30年代までのことである。著者はこの時代を「広義の一九世紀」という。この時期は、欧米を中心とする「工業化と国民形成」の時代ともいえ、工業化と都市化は、農村の生活世界に文化的変容をもたらし始めた時期でもあった。いかにも、不相応な時期に石刻の農耕神が登場してくる点は興味深い。しかし、読み進めるにしたがい、その謎は徐々に解きほぐされていく。農耕神碑の建立拡大を、時代背景や藩の政策及び精神運動の展開との関連から読み解いていくのである。
ここで本書の構成を紹介したい。

はじめに
総論
 一.「石刻の農耕神」出現に至る過程
  (一)カミとタマ
  (二)地霊について
  (三)中世村落における地霊と死霊
  (四)中世から近世への展開
  (五)再び地霊について
 二.近世幕藩体制と村落共同体の変質による「農耕神碑」の出現
  (一)一七世紀から一九世紀への道程
  (二)「イエ」・「ムラ」・「農民」はどのように変化したか
  (三)土地と農民
  (四)一八世紀から一九世紀にかけての文化的状況
  (五)石刻の農耕神建立による精神運動の展開
  (六)二〇世紀初頭の農耕神殺し
 三.祖霊と地霊 そして人の住む処としての「里」
フィールド編
 一.地神碑(農耕神碑)研究の金字塔
 二.全国的視野における農耕神碑建立拡大のプロセス
  (一)萌芽期(宗教主導) 一八世紀享保年間
  (二)発現期(宗教的展開並びに政策的萌芽) 一八世紀中葉
  (三)出現期 一八世紀後半
   (1)安永期 (2)天明期
    民間学者 大江匡弼
  (四)展開期(寛政) 一八世紀後半
(1)相模国(ほぼ神奈川県全域)と山梨県甲斐市の事例 (2)千葉県佐倉市及びその周辺 (3)徳島県及び淡路島(徳島藩) (4)大分県速水郡日出町の五神名地神碑(農耕神碑) (5)筑後地方の石像社日神 (6)岡山県における寛政期銘の農耕神碑 (7)愛媛県新居浜市の寛政期建立「社日宮」
  (五)拡大期(文化・文政) 一九世紀初頭
(1)島根県の五神名地神碑(農耕神碑) (2)鳥取県における農耕神碑建立
(3)丹後半島の農耕神 (4)香川県の農耕神碑 (5)愛媛県四国中央市土居町の「社日宮」碑 (6)徳島県及び淡路島の五神名地神碑(農耕神碑) (7)佐賀県多久市の穀神碑 (8)佐賀県伊万里市大川町の五神名地神碑(農耕神碑) (9)山梨県北杜市の五神名地神碑(農耕神碑) (10)埼玉県本庄市の五神名地神碑(農耕神碑) (11)千葉県佐倉市及びその周辺地域の農耕神碑 (12)神奈川県内及び東京都町田市内の農耕神碑(地神塔) (13)岡山県における文化・文政期の展開
  (六)高揚期(天保) 一九世紀中葉
    農耕神碑建立を伴う精神的運動の高揚
(1)佐賀県 (2)島根県 (3)鳥取県 (4)岡山県 (5)愛媛県 (6)三重県 (7)山梨県 (8)神奈川県 (9)千葉県
  (七)定着期 一九世紀後半
(1)佐賀県 (2)福岡県 (3)愛媛県(宇和島市及び新居浜市) (4)島根県 (5)鳥取県 (6)高知県 (7)広島県 (8)埼玉県 (9)神奈川県
  (八)終息期 一九世紀末~二〇世紀初頭
(1)福岡県 (2)島根県 (3)愛媛県 (4)高知県 (5)香川県小豆島 (6)和歌山県 (7)神奈川県 (8)群馬県 (9)埼玉県 (10)千葉県 (11)岡山県
  三.福岡県八女市の石造「倉稲魂尊」碑についての一考察
 特別編
  一.神の姿
  二.神の演出
  三.神の居場所
  四.習合の思想
 農神二者
 提言(一)
 提言(二)(暗示的に)
 おわりに

B5判243頁の中にこれだけの章、節、項が鏤められる。「総論」においては、土地とそれを司る地霊などの「神」について、古代、中世、近世と地霊と農耕の神の編年を書き記す。「フィールド編」では多くの調査データを地域ごとに並べ、その項目中に豊富な写真と図版を挿入した資料集的な様相である。とくに、写真にGPS情報を付記している点は斬新である。
 本書の「総論」でポイントとなるのが、農耕神碑が成立した近世後期における村落社会の変質であった。それまでに成立した近世村落において、農耕の基盤となる土地は、イエのものであり、同時にムラの領域内にある土地はムラのものでもあった。その土地制度や土地を司る農耕の神の前提が崩れ始めたことこそが、石刻の農耕神のはじまりであった。
 石造物を農耕の神として「村中」ないし「講中」などの集団で祀る行為は、意図的・作為的なものであったとする。このことを、「近世後半における自然条件や経済環境の変質により、村落社会の内部に質的変化が生じ、それを直接的な契機とした藩の政策展開やそれを背景とした村役人層の主導により、農耕神碑を建立することで村落秩序の安定化を図ろうとする運動が展開された」と著者は書く[38~39頁]。そして、新たな貨幣経済に対抗するためには、米などの生産を司る土地の神、農耕の神でなければならないとする。
この農耕の神の建立が終息していったのは、農民の土地への意識が近代的なものへと変化したからだとする。そのことを、「個人の排他的土地所有権を認定することによって、村内の有機的な結びつきを切断し、『村の土地は村のもの』という概念を否定した。」とする[41頁]。地租改正を近世と近代を区別する画期点とし、制度として家による土地制度が確定されたことを、石刻の農耕神建立が終息に向かった要因とし、一連の政策を「農耕神殺し」と書くのである。
 「総論」の次に続く「フィールド編」は、「総論」での議論をふまえ、具体的な「石刻の農耕神」を例示しながら、編年により整理する。
18世紀享保年間の「萌芽期(宗教主導)」では、茨城県、埼玉県の事例をあげ、「堅牢地神」碑の建立には修験者や曹洞宗寺院の関与を指摘する。次いで、18世紀中葉の「発現期」には宗教的展開並びに政策的萌芽を、18世紀後半の「出現期」(安永期、天明期)には、農民集団による建立へと変化してきたことが指摘される。この時期の特徴が、五神名を刻んだ地神塔が建立され始めたことであり、その最初のものとして、小田原曽我郷における天明6年の五角柱状の地神塔を例示する。そして、大江匡弼による『春秋社日醮儀』を介した中国の土地神を祀る社日の伝播が、その背景にはあったとする。
 それ以降、「展開期」としての寛政期においては、幕府や各藩の政策的事情を反映したものになってくる。すでに本誌に掲載された高橋晋一「徳島県の地神信仰」(『徳島地域文化研究』7、2009)でもすでに明らかにされていることではあるが、現在の徳島県及び淡路島において、藩をはじめとする支配者層による政策的展開を受けての建立が見られる点を紹介する。同様に、佐倉藩領内においても、神道宗教者の介在による藩の政策により、建立が進められた。このほか本書では、寛政期のものとして、神奈川県、山梨県甲斐市、岡山県岡山市、倉敷市、愛媛県新居浜市、大分県日出町、福岡県筑後市の事例を紹介する。この時期の建立は、各藩ともに少なからず政策的事情を反映した建立が展開されていたことを指摘している。では、なぜこの時期藩の政策として一斉に建立が進められたのかという疑問が残る。広域的視点から、各藩相互の関係や藩主間交流を考慮する必要性を、本書においても認めている。
さらに、19世紀初頭の文化・文政期を「拡大期」として、19世紀中葉の「天保期」を高揚期として、関東、中国、四国、九州地方で多数建立されていった事例が紹介される。それ以後も、19世紀後半を「定着期」、19世紀末~20世紀初頭を「終息期」として、その時期に該当する各地の地神碑を紹介している。
石刻の農耕神として一八世紀の享保期以降に出現し、「広義の一九世紀」に隆盛を迎え、近代化とともに終息していったことを、著者は次のように書いている。「当該時期に先立つ定着期において、農耕神碑の建立は、庶民によって自主的に行われるエネルギーにまで到達していたと考えられるのである。しかし、いわゆる近代化の影響によって、農耕神建立のエネルギーは減退し、一応の終息を迎えることになった。ただし、大地への信仰は絶えることなく継続し、意識下へ再び沈殿した」とする[一八七頁]。明治期を最後にして、その後石刻の農耕神が建立されることはほとんどなくなった。
 本書の「フィールド編」の後に配置される「特別編」では、補遺として特徴のある石刻の農耕神の事例紹介をする。また、「提言」として、春秋の社日を「大地の日」という国民の休日にしてはどうかとか、近代化がもたらした土地倫理の再考をうながすユニークな記述がある。
 本書の「おわりに」において、著者は「フィールド編」を重点的に読んでほしいと書く。学生時代の宮本常一の著書との出会いからフィールドワークを始め、数々の調査地において、幾多の困難に遭遇し、それ以上に多くの厚情を受けたという。事例として紹介される地域は、南関東、山梨、近畿の一部、中国、四国、北九州の広域にわたる。フィールドワークにかけた労力は察するに余りある。もちろん、一個人による調査であり、各地に無数にある石刻の農耕神碑をすべて網羅することは不可能であろう。しかし、その中でこれだけの数の事例を、広域に提示したことは、これ以上にない成果である。
本書の全編を通じて、著者の引用する文献は幅広い。宮本常一など民俗学の文献はもちろんのこと、宗教学、歴史学、経済史、思想史、哲学へと広がる。また、フィールドに赴くと必ず地元の図書館で文献調査をし、各地の市町村史や地誌の類まで広く閲覧していることをうかがわせる。
 著者は、本書末において荘子を引用する。「たとえば祭りのときの社の神のように、おおらかで心がひろく、特定のものだけに恵みをかけることがない。また、たとえば限りなくひらけた四方の空間のように、ひろびろとして、どこにも限界を設けることがない。ひろく万物を自分のうちにいだき、特定のものだけを受け入れたり、助けたりすることはない。この境地を無方―一定の方向に限られることなく、あらゆる方向を包む立場とよぶ。万物はもともと同一であり、ひとしいものである。いずれが劣り、いずれがまさるとすることができようか[244頁]。」本書のための調査、執筆において、著者が一貫して保持していた信念のようにも感じられた。