博物館ニューストップページ博物館ニュース013(1994年1月10日発行)阿南市小勝島の旧海軍特攻隊基地(013号CultureClub)

阿南市小勝島の旧海軍特攻隊基地【CultureClub】

歴史担当 山川浩實

はじめに

徳島県阿南市の橘湾に浮かぶ小勝(こかつ)島(図1)は、周囲約6.5kmの小さな島で、付近は室戸阿南海岸国定公園に指定された景勝地となっています。この小勝島には、太平洋戦争の末期、海軍が本土決戦に備えて構築した特攻隊基地がありました。

図1 小勝島の位置

図1 小勝島の位置

ここでは、現在小松島市に在住しておられる岡田源吉氏から当館に寄贈された「大阪海軍施設部小勝島特攻隊基地関係資料」と、茶園義男氏の研究成果、ならびに阿南市教育委員会の阿部里司氏からの御教示をもとにして、この旧海軍特攻隊基地について紹介します。

基地のあらまし

小勝島には1945 (昭20) 年5月ごろ、米軍の四国上陸に備えて、第6特攻戦隊第22突撃隊の司令部が置かれました。この基地には出撃命令が出れば、敵の艦船に体当たりして自爆する特殊潜航艇が密かに配備されました。この特殊潜航艇は、当初は大型の蛟竜(こうりゅう)が、後には小型の海竜と回天が配備されたといわれています。蛟竜は乗員5名で魚雷2本を装備し、全長26m、水中速力は時速約30kmの特殊潜航艇でした。海竜は乗員2名で魚雷2本を装備し、両翼を持ったやや低速の特殊潜航艇、回天は乗員1名の高速(時速約60km)の特殊潜航艇でした。こうした特攻攻撃への参加は強制されたもので、兵士の人命を著しく軽視した思想が生み出した特異な戦法でした。

この特攻隊基地は、大阪海軍施設部によって密かに構築が進められました。施設部の隊員としてこの基地の構築に従事した一人である岡田源吉氏が作成した基地図、および茶園義男氏が作成した基地図によれば、特攻隊基地は島の西側に位置し、高台には見張所が置かれていました。突撃隊司令部は北西部にあってその周りに兵舎がありました。また、南西部に特殊潜航艇の引き揚げ軌道と兵舎があり、それらの脇の2カ所に3連装の25mm機関砲が備えられていました。さらにその周辺には、5隻分の特殊潜航艇の地下格納庫、ならびに地下電気室が配置されていました。兵舎には、長さ約18m、奥行き約6mのトタン屋根の木造のもと、高さ・幅ともに約3.5m、奥行き約20mの地下壕(ごう)がありました。

基地の構築

特攻隊基地の構築がいつから開始されたのか、正確には分かっていません。ただ、当時の工事を監督した元大阪海軍施設部第602部隊第2中隊長の証言(1981年6月7日付け、徳島新聞) によれば、1944 (昭19) 年末ごろから、小勝島で基地構築のための測量などが行われたといいます。このころ戦局は一段と悪化していて、フィリピン沖海戦では日本の連合艦隊が壊滅し、神風特別攻撃隊が特攻攻撃を開始するなど、日本の敗戦が決定的となった時期でした。こうした状態のなかで、小勝島の特攻隊基地の構築が密かに進められたわけです。

1945 (昭20)年4月から6月までの突貫工事では、昼夜3交代で50本近い地下壕が掘られ(図2)、本土決戦に備えたといわれます。この工事に当って、前記の中隊長が監督する大阪海軍施設部の隊員約80人や、基地の兵隊約400人のほか、朝鮮人労働者約200人が工事に従事しました。また、那賀・勝浦・海部郡から98人という多数の大工が徴用(ちょうよう)されました。前記の「特攻隊基地関係資料」の中の「阿部特攻隊勤務大工名簿」(図3)によれば、3つの郡の中でも那賀郡からの大工が特に多く、別名、“嵐隊”とも呼ばれた小勝島の阿部特攻隊基地に、82人が集中的に徴用されました。この工事で施設部の隊員がコンクリートの厚さや強度を調査するため使用した、施設ハンマーが残っています(図4)。

図2. 突貫工事で掘られた地下壕(1993年1月11日撮影、 阿南市教育委員会提供)

図2 突貫工事で掘られた地下壕(1993年1月11日撮影、 阿南市教育委員会提供)

図3 阿部特攻隊勤務大工名簿

図3 阿部特攻隊勤務大工名簿

図4 墓地建設で使われだ施設調査用ハンマー

図4 墓地建設で使われだ施設調査用ハンマー

このように多数の人員を動員し、密かに構築を進めた特攻隊基地は、1945(昭20)年の終戦直前、米軍にその存在を知られ、戦闘機による機関銃攻撃を受けました。岡田源吉氏によれば、当時、小勝島の対岸にあった施設部の事務所も同時に攻撃され、同氏の眼前で同僚が頚部を撃ち抜かれ即死したといいます。図5の弾丸(長さ3.1cm、径8mm)がそれで、過去の戦争を生々しく語っています。

図5 岡田源吉氏の同僚の頭部を貫通し、即死させた弾丸

図5 岡田源吉氏の同僚の頭部を貫通し、即死させた弾丸

おわりに

小勝島の特攻隊基地は構築中に終戦となったために、未完成に終わりました。岡田源吉氏から寄贈を受けたこの資料は、終戦直後に上官から出された機密書類の焼却命令にもかかわらず、悲惨な戦争の真実を後世に伝えるため、同氏が密かに小勝島の基地から持ち出したものです。もしも戦争が長引いていれば、この基地と付近一帯では、“特攻隊”という名のもとに極めて凄惨(せいさん)な戦いが繰り広げられ、多くの尊い人命が失われることになっていたでしょう。
小勝島周辺は、現在火力発電所の誘致が決定しており、特攻隊基地のあった西側一帯はすべて、削平後に発電所用地になります。そして、それとともに特攻隊基地は消滅してしまいます。戦争の事実を明瞭に示す特攻隊基地の消滅は誠に残念ですが、戦争を風化させることなく、悲惨な戦争の事実を後世に伝え、平和の尊さの意味を考えなければならないと思います。

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