博物館ニューストップページ博物館ニュース014(1994年4月10日発行)徳島の古墳-東西埋葬の風習-(014号CultureClub)

徳島の古墳-東西埋葬の風習-

考古担当 天羽利夫

古墳の出現

いわゆる魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、弥生(やよい)時代の日本をくわしく記した史書です。魏志倭人伝とは、中国の陳寿(ちんじゅ)(233~297)が編んだ『三国志(さんごくし)』の『魏志』の東夷伝(とういでん)の倭人の条の略称です。

この史書は、弥生時代の倭人(日本人の古い呼び方)の居住する位置や方位、道程、戸数のほか、気候、動植物などの自然環境、産物、風俗、習慣、さらには中国・魏との国際関係などについても記しています。

なかでも、邪馬台国(やまたいこく)や女王卑弥呼(ひみこ)に関する記述は一般になじみの深いものです。邪馬台国が九州にあったか、畿内(きない)(奈良県やその周辺)にあったか、今でも新聞紙上をにぎわす話題です。邪馬台国で60年間も君臨した女王卑弥呼の人物像も、また魅力の一つです。

女王卑弥呼が亡くなったのは、西暦248年前後の頃といわれます。魏志倭人伝には、「卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人」という記述があります。考古学では、この記事を古墳(こふん)出現のより所にしています。卑弥呼の墓が特別な大きな墓であったと容易に想像できるからです。

弥生時代に続く古墳時代とは、全国各地で競って古墳が築かれた時代をいいます。弥生時代後期から終末期にかけて、墳丘墓(ふんきゅうぼ)と呼ぶかなり大きな墓が築かれました。墳丘墓は、古墳出現直前の墓といえます。墳丘墓と古墳との間には、いろいろな点で大きな差が見られます。古墳の特徴は、首長にふさわしい形(前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん))と規模、死者を葬る長大な木棺(もっかん)と木棺を覆う石室(せきしつ)、死者に供える大量の副葬品(ふくそうひん)などにあります。

鳴門市大麻町にあった萩原(はぎわら)1号墓は、弥生時代終末期(庄内式併行期(しょうないしきへいこうき))の墳丘墓で、直径18mの円丘(南半分は削平され不明)に長さ8.5m、先端幅2.6mの突出部(とっしゅつぶ)をもつ形をしています。円丘の中央に結晶片岩の割石で築いた竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)がありました。ほとんど壊れていたため石室の全容は不明ですが、長さ約4mの石室と推定されました。石室内部から中国製の画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)と管玉(くだたま)4点が発見されました。

徳島市国府町にある宮谷(みやだに)古墳は、全長45mの前方後円墳で、直径25mの後円部中央には、内法で長さ5.95m、幅1.3m、高さ0.8mの竪穴式石室が築かれています。石室はすでに盗堀されていましたが、重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)(1面)と管玉、(1個)、ガラス小玉(11個)、鉄鏃(てつぞく)(1個)、鉄斧(てっぷ)(1個) 、キリ状鉄器(1個)、鉄剣(1個以上)、やりがんな(6個以上)が発見され、前方部墳丘上から三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)3面が出土しました。三角縁神獣鏡はもともと石室内に副葬されていたと考えられます。

三角縁神獣鏡は、魏志倭人伝にいう魏から邪馬台国に下賜された「銅鏡百枚」に比定される鏡で、宮谷古墳からの発見は徳烏県下で初めての例です。

萩原1号墓と宮谷古墳を比べてみると、墳丘や石室、副葬品に大きな差があることが理解できます。これが、弥生時代「墳丘墓」と古墳時代の「古墳」とのちがいなのです。

東西埋葬の風習

ところで、萩原1号墓と宮谷古墳の竪穴式石室は、いずれも東西方向に向いていました。死者の頭の位置は、萩原1号墓は西側に、宮谷古墳は東側と推定されました。徳島県下で発見されている3世紀から5世紀にかけて築かれた墳丘墓や古墳の埋葬頭位を調べてみると、図1のようになりました。一見して東西いずれかに向いていることが知れます。東か西どちらかに決まっていたようではなく、とにかく東か西を優先していたと思われます(図2)。

図1徳島における埋葬頭位

図1徳島における埋葬頭位

 

図2 曽我氏神社1号境の石室。円墳中央に2つの竪穴式石室が並ぶ。いずれも東枕の埋葬。(図1のNo.10を参照)

図2 曽我氏神社1号境の石室。円墳中央に2つの竪穴式石室が並ぶ。いずれも東枕の埋葬。(図1のNo.10を参照)

古墳時代の中心地であった畿内はどうなのでしょうか。大阪大学の都出比呂志教授は、畿内の古墳は北枕優先に埋葬する風習があったと説いています。これは、『儀礼(ぎらい)』(三礼のー。冠婚喪祭などを記した戦国時代の書)以来の中国思想によるものである、と都出氏は考えています。

香川県の津田湾沿岸の古墳や愛媛県今治市の来島(くるしま)海峡に面した古墳などは、畿内と同じ北枕優先の埋葬のようです。これらの地域は、畿内政権が瀬戸内海の海上交通の拠点を支配下に治めた結果のあらわれと考えられます。
徳鳥と同じ東西優先の埋葬は、隣の香川県、愛媛県、岡山県、兵庫県の西部(播磨(はりま))にも見られます。東西優先の埋葬は、弥生時代後期後半、岡山県か香川県で始まったようです。畿内の北枕優先の風習より古いのではないかと思われますが、なぜ東西埋葬なのか、その理由は不明です。畿内の風習が中国の影響とすれば、東西方向に埋葬する風習は中国以外の影響によるものか、独自につくり出された風習なのか今後の研究課題といえます。

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