博物館ニューストップページ博物館ニュース015(1994年7月10日発行)守住貫魚の画風について(015号CultureClub)

守住貫魚の画風について

美術工芸担当 大橋俊雄

はじめに

守住貫魚(もりずみつらな)は、幕末から明治にかけて活躍した住吉派の画家です。彼は、60歳で明治維新を迎えるまで、絵師として阿波の蜂須賀(はちすか)家に仕えます。その後、明治10年代から20年代にかけて、内国絵画共進会(ないこくかいがきょうしんかい)や日本美術協会展に出品して度々受賞し、帝室技芸員(ていしつぎげいいん)にも就任しています。当時の彼の活動は華々しいものでしたが、現在ではその存在がやや忘れられているようです。ここでは、近年一部で知られるようになった貫魚の画風について述べてみたいと思います。

貫魚の経歴

まず最初に、貫魚の経歴について少し触れておきます。
彼は、文化6年(1809)に阿波国徳島藩の銃手(じゅうしゅ)の家に生まれます。姓は庄野(しょうの)、名は徳次郎(とくじろう)で、住吉派に入門した頃に守住(もりずみ)姓に改めたようです。

文政7年(1824)、16歳のときに貫魚は江戸へ出ます。そして住吉派の渡辺広輝(ひろてる)に学び、輝美(てるよし)と名乗ります。天保5年(1834)頃に、広輝の師住吉広定(ひろさだ)に入門します。そして一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)の障屏画(しようへいが)製作に参加し、これが認められて定輝(さだてる)と改名します。天保9年に、30歳で徳島藩の絵師になり、安政元年(1854)に、広定が弘貫(ひろつら)と改名したのにともない名を貫魚とします。安政2年には、京都御所の再建にあたり、紫宸殿(ししいでん)の障子絵(しょうじえ)「朝賀(ちょうが)図」を描きます。

明治維新後、一時神社の神官になりますが、明治13年頃に大阪に移住します。明治15年、第1回内国絵画共進会に「船上山遷幸(せんじようさんせんこう)図」を出品して銅印を受けます。2年後の第2回共進会では、「宇治川先登(うじがわせんとう)図」「登龍(とうりゅう)図」を出品してただ一人金印を受け、審査官に選ばれます。またこの時期、大阪の浪華画学校(なにわががっこう)設立のために尽力し、大阪絵画共進会(きょうしんかい)を開催します。
明治20年、皇居(こうきょ)内の宮殿造営にあたり、杉戸(すぎと)に「機織(はたおり)図」と「棕櫚(しゅろ)図」、小襖(こぶすま)に、「虫撰(むしえらみ)図」を描きます。明治23年、82歳のときに帝室技芸員に選ばれ、同じ年に、日本美術協会展に「紫式部石山寺観月(むらさきしきぶいしやまでらかんげつ)図」を出品して金牌(きんぱい)を受賞します。没したのは明治25年で、享年84歳でした。

一般に貫魚は、明治時代の画家として扱われます。しかし彼の経歴をみると、30歳から60歳までの、年齢的に最も充実した時期を、落の御用(ごよう)絵師として過ごしています。貫魚を、幕末の住吉派の画家として位置づけた方がよいのかも知れません。これは作品の上からも言えますが、本題からはずれるので省略します。

貫魚の画風

貫魚、の作品では、古典を題材にした歴史画や物語絵(ものがたりえ)が多数を占めます。そのなかには、入念に彩色をほどこす着色画と、部分的に淡彩(たんさい)を加える墨画(ぼくが)の二種類があります。以下に後者の例をあげてみます。

  • 1 源氏物語明石(げんじものがたりあかし)図 徳島城博物館蔵
  • 2 源氏物語初音(はつね)図 逸翁(いつおう)美術館蔵
  • 3 源氏物語須磨(すま)図 徳島県立博物館蔵(図1)
  • 図1源氏物語須磨(すま)図 徳島県立博物館蔵
  • 図1 源氏物語須磨(すま)図 徳島県立博物館蔵

 

  • 4 源氏物語花宴(はなのえん)図 徳島県立博物館蔵
  • 5 源氏物語画帖(がじょう) 徳島県立博物館蔵(図2)
  • 図2源氏物語画帖(がじょう) 徳島県立博物館蔵
  • 図2 源氏物語画帖(がじょう) 徳島県立博物館蔵
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  • 6 仁徳帝高屋之(にんとくていたかきやの)図 個人蔵
  • 7 源氏物語初音図(粉本(ふんぽん))徳島県立博物館蔵
  • 8 源氏物語蓬生(よもぎう)図(粉本)徳島県立博物館蔵(図3)
  • 図3源氏物語蓬生(よもぎう)図(粉本)徳島県立博物館蔵
  • 図3源氏物語蓬生(よもぎう)図(粉本)徳島県立博物館蔵

上のうち、1~6本は絹本(けんぽん)に描かれています。7,8は、手元に置いて参考にするため、貫魚自身が自分の絵を紙に引き写したものと思われます。 ちなみに2と7は、同じ画題(がだい)ですが構図(こうず)はまったく異なります。
1~6では、人物や建物、草木、土岐(どは)などを細密(さいみつ)な墨(すみ)の線で描き、やわらかい濃淡のほかしをつけ、緻密(ちみつ)で繊細(せんさい)な表現をおこなっています。彩色は、墨の調子を生かすために部分的に淡くぬるにとどめ、余白には金泥(きんでい)で霞(かすみ)を引いています(図参照)。7, 8は本画(ほんが)の写しですが、墨のつかい方が1~6に大変近いので、もとの絵もやはり同じ表現をしていたと思われます。
ところで、1の源氏物語明石図は、こうした表現がもっとも成功した例といえます。描線(びょうせん)がのびやかなので、人物に量感(りょうかん)が感じられます。また樹葉などでは、濃淡による陰影がたくみに表されています。2の源氏物語初音図は、この明石図と表現がちかく、落款(らっかん)も似ているので、ほほ同じ時期に描かれたと考えられます。6の仁徳帝高屋之図は、緊張感のある描線をもちいており、やはり完成度の高い作品として注目されます。
前に述べたように、貫魚の名前は安政元年から使いはじめ、それ以前は定輝でした。そこで落款をみると、1~5は貫魚銘(めい)ですが、6は定輝銘です。また表現を比べると、6は1,2より初々(ういうい)しいところがあり、少し早く描かれたように思えます。貫魚は、すでに御用絵師時代からこうした絵を描いていたのではないでしょうか。
 

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