照葉樹林帯の文化【CultureClub】

国立民族学博物館長 佐々木高明

国立民族学博物館長 佐々木高明氏

はじめに

アジア大陸の東縁に連なる日本列島には、北からの文化の道、南からの文化の道を通ってさまざまな文化が流入し、それが交錯し、集積する中で日本文化が形成されてきたと考えられる。このうち南からの文化の中心をなすものは、長江流域以南の照葉樹林帯で形成された文化で、われわれはその文化を照葉樹林文化と名づけている。この照葉樹林文化の特色は次のようにいうことができる。

図1 ブータンのヒマラヤ中腹に広がる照葉樹林。西南日本に成立する森林と基本的に同じである。

図1 ブータンのヒマラヤ中腹に広がる照葉樹林。西南日本に成立する森林と基本的に同じである。

ヒマラヤの中腹、海抜高度1500~2500メートルほどのところに、西日本の森林とよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある(図1)。この森林は、東部ヒマラヤ、アッサム、東南アジア北部山地から、雲南・貴州の高地、江南山地を経て朝鮮半島南部や西日本にいたる東アジアの暖温帯に広がっている。この森林帯は、主に常緑の力シ、シイ、タブ、クス、ツバキなどの、樹葉の表面が光る照葉樹で構成されるため照葉樹林帯とよばれている。この照葉樹林帯に居住する諸民族の生活文化の中には、数多くの共通の文化的特色があり、それらによって特徴づけられる文化のまとまりを「照葉樹林文化」とよぶ。共通の文化的特色としては、ワラビやクズなどの野生のイモ類や力シなどの堅果類を水さらしによってアク抜きする技法、茶の葉を加工して飲用する慣行、絹糸虫の繭から糸を引いて絹をつくり、ウルシノキの樹液を用いて漆器をつくる方法、柑橘とシソ類の栽培と利用、麹を用いて粒酒を醸造することなどがあげられる。そのほか、アワやハトムギなどの雑穀やサトイモやヤマノイモなどのイモ類を主作物とする焼畑農耕が、典型的な照葉樹林文化を支える生業形態として重要なこと、雑穀類や稲のモチ種を開発し、モチ・チマキ・オコワなどのモチ性食面をつくり、それを儀礼食として用いる慣行が卓越すること(図2、3)、ミソやナットウのような大豆の発酵食品や、ナレズシやコンニャクのような特殊な食昂が広くみられること(図4)、なども照葉樹林文化の重要な特色である。また、歌垣の慣行とそれに伴う妻問いの習慣、山上他界の概会、八月十五夜の習俗、豊作を祈願する儀礼的狩猟の慣行、あるいは鵜飼の習俗など、さらには『記紀』神話の中にあるイザナギ・イザナミ型の兄妹神婚神話や殺された女神の死体から五穀が発生する死体化生神話、あるいは羽衣伝説や花咲爺、炭焼小五郎その他の説話など、習俗や儀礼、神話や説話などの特色においても、照葉樹林帯の諸民族の間には、共通の要素が数多く伝承されている。このように照葉樹柿帯の民族文化の中にみられる諸特色とわが国の伝統的文化の特色の聞には強い共通性と類似性が認められる。その結果、日本の伝統的文化の特色の多くが、東アジアの照葉樹林帯にそのルーツをもつことがわかってきた。

図2中国雲南省西双版納の景洪の朝市。チマキ、オコワ、 ウイロウなどさまざまなモチ製品が売られている。

図2中国雲南省西双版納の景洪の朝市。チマキ、オコワ、 ウイロウなどさまざまなモチ製品が売られている。

図3.景洪の朝市で売られていたチマキ。ここでは、チマキを食用力ンナの葉で包んで蒸すが、形は日本のチマキにそっくり。

図3景洪の朝市で売られていたチマキ。ここでは、チマキを食用力ンナの葉で包んで蒸すが、形は日本のチマキにそっくり。

 

図4.インドのアッサム地方、シロンのバザールで売られていたナレズシ。魚を発酵させて作るのは、琵琶湖沿岸の鮒能と同じである。ナレズシの分布の西端はこのあたりらしい

図4インドのアッサム地方、シロンのバザールで売られていたナレズシ。魚を発酵させて作るのは、琵琶湖沿岸の鮒能と同じである。ナレズシの分布の西端はこのあたりらしい。

照葉樹林文化の起源地は、諸要素の分布が集中するアッサムから雲南高地を中心とする地域と想定されるが、アジアの栽培稲もその付近で起源したと推定され、水田稲作を基軸とする稲作文化も、照葉樹林文化の伝統の中から、長江流域で形成されたものとみられている。照葉樹林文化の発展段階は、野生植物や半野生植物を主として利用する「プレ農耕段階」、雑穀・根栽型の焼畑を生業の中心とする「雑穀を主とした焼畑農耕段階」、水田稲作農耕を主とする「稲作ドミナントの段階」の三つに大別されている。照葉樹林文化の日本到島への伝来については、プレ農耕段階のそれが縄文時代の前期頃には西日本に広がったと考えられる。鳥浜貝塚をはじめ、各地で漆製品が数多く発見されていること、水さらし技術が当時すでに存在したこと、ヒガンバナなどの半栽培植物やエゴマ、ヒョウタン、リョクトウなどの作物が大陸の照葉樹林帯から伝来していたことなどがそれを証明している。さらに縄文時代の後・晩期の西日本には焼畑農耕段階の典型的な照葉樹林文化が、伝来したと考えられる。岡山県や北部九州の縄文後・晩期の遺跡からは大量の畑雑草や作物の種子とともに炭化物が出土し、焼畑が営まれていたことが知られている。縄文時代の末あるいは弥生時代の初期に北部九州に水田稲作文化が伝来し、西日本に急速に展開するが、それを可能にしたのは、雑穀栽培を伴う焼畑段階の照葉樹林文化が、すでに西日本に拡がっていたためと考えられる。こうして西日本に展開していった弥生(稲作)文化は、土着の縄文文化の中から照葉樹林文化の諸要素を受け取り、自らの中で再編成することになるが、稲作文化の伝播とともに照葉樹林文化の諸要素も日本到島の各地に拡がり、日本文化の基層の部分に、それらが深く広く定着することとなったのである。


以上の文章は、平成6年度第2回企画展「祖谷ーその自然とくらし」(7月26日~9月4日)の開催を記念して行われた講演会(7月31日、140名出席)の要旨として、佐々木氏よりお寄せいたたいたものを転載しました。写真も佐々木氏より御提供いただきました。なお、写真の解説には「照葉樹林文化と日本(くもん出版、1992年)」より、一部を引用しました。
(文責 当館植物担当学芸員 鎌田磨人)

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