博物館ニューストップページ博物館ニュース131(2023年6月15日発行)雲仙岳の噴火を伝える絵図資料(131号 収蔵品紹介)

雲仙岳の噴火を伝える絵図資料―寛政四壬子肥前島原大変次第(阿波国文庫)の紹介―【収蔵品紹介】

歴史担当 松永友和

 災害は、ときに人びとの生活に深刻な影響を与え、かけがえのない生命を奪うことがあります。平成2年(1990)11月、長崎県島原半島の雲仙岳(うんぜんだけ)主峰・普賢岳(ふげんだけ)(標高1,359m)が噴火活動を開始し、それにともない発生した火砕流・土石流によって、死者・行方不明者44人、負傷者10人、家屋損壊は2,511棟に及びました(北原ほか2012)。平成3年6月に発生した大規模な火砕流について、記憶している方も多いかと思います。

 ここで紹介する資料「寛政四壬子肥前島原大変次第」は、平成2年からさかのぼること198年前の寛政4年(1792)に発生した、雲仙岳の噴火を伝える絵図資料です(図1)。当時の状況は次のとおりです(北原2003)。寛政3年11月頃から地震活動がはじまり、翌年正月18日に普賢岳で噴火が発生します。3月1日には地震とともに噴火がおき、溶岩は普賢岳の中腹まで達します。しかし、その後1ヵ月して予想もしないことが起きます。普賢岳の東に位置する眉山(まゆやま)が地震によって山崩れを起こし、島原城下の南半分を押し出しながら有明海した11mの大津波によって、死者約1万5,000人、流出・潰家約6,100棟という甚大な被害となりました。のちに「島原大変肥後迷惑」とよばれるこの災害は、日本最大の火山災害といわれています。
 

 さて本図ですが、絵図の中央に「肥前島原城」が描かれており、城の近くには噴煙を上げている「前山」(眉山)と「七面」(七面山(しちめんざん))、その後方に「温泉山(おんせんざん)」(雲仙岳)が見えます(図2)。 海に目を移すと、火を吹き出している島々(崩落した前山の一部)が描かれています。この資料は、右下に阿波国文庫印が捺されていることから(図3)、徳島藩蜂須賀家の旧蔵資料であると考えられます。徳島藩が島原・肥後の災害に関する情報を収集していたことを示す上でも、興味深い資料と言えるでしょう。

図1 寛政四壬子肥前島原大変次第 (徳島県立博物館蔵)

図1 寛政四壬子肥前島原大変次第(徳島県立博物館蔵)

図2 「島原大変肥後迷惑」(寛政4年の雲仙岳噴火)の様子

図2 「島原大変肥後迷惑」(寛政4年の雲仙岳噴火)の様子

図3「阿波国文庫」印

図3「阿波国文庫」印


 
 <参考文献>
北原糸子・松浦律子・木村玲欧編 2012『日本歴史災害事典』吉川弘文館
北原糸子 2003 「絵図が語る「島原大変肥後迷惑」」、『週刊朝日百科80日本の歴史 浅間の噴火と飢饉』、朝日新聞社

 

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