木地師とはどのような人たちですか?【レファレンスQandA】
美術工芸担当:大橋俊雄
当館が、地元産の漆器である半田塗りの展示をしたとき、観覧者から時おり「木地師」という言葉を聞きました。半田の漆器は、木地師が作った白木の椀や盆に、塗師が漆を塗ったのが最初といわれています。
木地師については、民俗学や歴史学を中心に多くの研究者が論文を発表しています。わたしは、おもに漆工品を調べる門外漢に過ぎませんので、わかる範囲を記すにとどめます。
木地師は、轆轤(ろくろ)を挽(ひ)いて木製の椀や盆、鉢などを作る職人です。轆轤は、焼きもの用のそれと違い、軸じくが長く横向きなのが特徴です。轆轤を回転させるのに、かつては軸に綱を巻きつけて、人が綱を引きましたが、やがて改良が加えられ、現在では電動工具が利用されます。軸の先には金属製
の爪があり、椀や鉢の形をこれに打ち込んで回転させ、先の曲がった棒状のカンナを当てて成形します(図1)。
木地師は江戸時代の記録に登場します。彼らの多くは、使いやすい木を選ぶため山の奥深くに住み、木を伐きりつくすと移動しました。また現在の滋賀県東近江市永源寺町にある、蛭谷と君ヶが畑の2か所が木地師の発祥地とみなされました。両所の順国人が、「氏子狩帳」などとよばれる帳面を持って諸国をまわり、木地師を訪問して名前を記帳し、仕事の免許状や宗門手形、往来手形などを彼らにあたえました。
半田の木地師も「氏子狩帳」に現れます。君ヶ畑にある文化11年(1815)の同帳には、「美馬郡半田口山平良石名ノ内中屋村」の地名と兼太郎の名があります。現在中屋には、木地師兼太良の墓があり、文政13年(1830)9月13日に57歳で没っしたことが知られます(図2)。
ちなみに墓の施主は宮吉と佐蔵ですが、宮吉は姓を小椋といい、やはり君ヶ畑の帳面に名前があります。