博物館ニューストップページ博物館ニュース027(1997年7月1日発行)Q.江戸時代に、元郡代による脱獄事件が・・・(027号QandA)

Q.江戸時代に、元郡代による脱獄事件があったとききましたが…?【レファレンスQ&A】

歴史担当 山川浩實

A 江戸時代の終わり頃、徳島城下町の牢獄から元代官が脱獄するという事件が、実際に起こリました。

脱獄した人物は、藩の直轄地の農民を治めた代官ではなく、これより強い権限を持ち、郡部の全農民を治めた郡代(ぐんだい)を務めたことがありました。郡代は、藩の中できわめて重要な役職でした。

このように重要な役職にいた人物が、なぜ投獄されたのでしょうか?

事件は、今からおよそ190年前に遡(さかのぼ)ります。徳島藩では、毎年増え続ける財政赤字の対策として、18世紀後半頃から、農民の年貢負担を一段と厳しくしていきました。

図1元郡代が脱獄した徳島城下の塀裏牢(「徳島御城下絵図」当館蔵)

図1元郡代が脱獄した徳島城下の塀裏牢(「徳島御城下絵図」当館蔵)

 

こうした中で、海部郡代に就任したのが、佐和滝三郎(さわたきさぶろう)でした。彼は、1799年(寛政11)から、6年間郡代を務めました。しかし、彼の赴任中、農民約180人が土佐国(現在の高知県)に逃亡するという、大きな百姓一揆が発生しました。一揆は、彼が実施した「盆撰(ぼんえ)り」という年貢米の取り立てが原因であったといわれます。それは、良質の年貢米を取り立てるため、米を盆に入れ良質の米だけを一粒ずつ選別させるという方法です。一揆について、徹底した藩の調査が行われた結果、逆に郡代自身が数々の不正や勝手気ままな行為を数多く行ったことが明らかにされました。そのため彼は、ただちに役職を解かれ、武土には適用されない投獄という、きわめて厳しい処分を受け、家は断絶しました。ところが彼は、まもなく城下の牢から脱獄するという、考えられない暴挙に出たのです(図1・2)。彼には、何らかの激しい憤(いきどお)りがあったのかも知れません。この時の手配書からは、藩により彼の殺害が認められていたことが明らかになります(図3)。彼は、数日城下に潜んでいたようですが、まもなく現在の徳島市福島にある慈光寺(じこうじ)の境内で捕えられ、のち牢死したと伝えられます。

図2塀裏牢跡(徳島市南内町2丁目)

図2塀裏牢跡(徳島市南内町2丁目)

 

このように、藩の重要な役職を務めた人物が脱獄したという事件は、ほとんど他に例がみられないでしょう。

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