Q.室町幕府の将軍がまじない札を配っていたと聞いたのですが、そんなことが本当にあったのですか?【レファレンスQ&A】
歴史担当 長谷川賢二
A 結論からいうと、将軍がまじない札を配ったという事実はありません。しかし、阿波に居住した将軍の一族が、まじないに関係したという話は伝えられています。ただし、それは江戸時代のことです。
まず、阿波に住んだ将軍家の一族についてお話ししましょう。室町幕府11代将軍足利義澄の子であった足利義維(後に義冬に改名、1509~1573)は、阿波国守護細川之持に養育されました。大永7年(1527)堺に上陸し、京都に入りますが、後見人だった三好元長が自害したため、淡路に逃れました。その後、天文3年(1534)、阿波国守護細川持隆によって阿波に迎えられ、那賀郡平島(ひらじま)庄(現 那賀川町)に住むことになりました。その後、義冬はいったん周防(すおう)(現 山口県)に移り、さらに阿波に戻って生涯を終えています。長男義栄(1538~1568)は14代将軍になりましたが、次男義助(1541~1592)とその子孫は、平島に留まりました。このように平島に住んだ足利氏の当主を阿波公方(くぼう)(平島公方)といい、義冬を初代と数え、9代義根(1747~1826)が文化2年(1805)に京都に移るまで続きました。
図 1 当館蔵
この阿波公方がまじないに関係しています。4代義次(1596~1680)のとき、館のすす払いをしていると、床下にマムシなどの死骸がたくさんあったことから、足利将軍家の威光を恐れて毒蛇が死んだといううわさが立ったというのです。この話を聞いて、マムシよけの守札を求める人々が相次いだため、公方家では「阿州足利家」と書いて「清和源氏之印」という朱印を押した札を発行するようになり、義根の代まで続いたそうです。
阿波公方が配ったという守札は、県内各地に、伝わり、また、大きさもさまざまです。札を懐に入れて野山に出るとマムシにかまれないとか、へビに見せれば追い払えるなどと信じられていました。一般に見られるのは、図1のような形式で書かれたもので、阿波公方の館跡にたつ那賀川町立歴史民俗資料館に展示されている札も同様の形式のものです。なかには、鴨島町の冨樫栄一氏宅に伝わっていた札のように、横書きで「足利家」と大書された珍しいものもあります(図2)。
図2 冨樫栄一氏蔵(当館保管) 。
ちなみに、平島では「くちなは咬まず、はみ咬まず、平島生まれの戌の年の男」と3度唱えれば、マムシに咬まれないという言い伝えがあるそうです。戌年は足利義栄が生まれた天文7年(1538)のことを指しているようです。
ところで、阿波公方とマムシよけの信仰がなぜ結びついたのかは分かりません。少なくとも、足利将軍の一族であれば、名門であり、その貴種性ゆえに信望を集めたことは容易に考えられます。そうした足利家に対する意識が、特異な呪力をもっというイメージを植え付けることになったのかも知れません。それは同時に、人々の徳島藩への反抗意識と重なるものであったとも思われます。それにしても、なぜマムシなのかは、やはり謎です。