守住貫魚と模型制作【Culture Club】
美術工芸担当 大橋俊雄
守住貫魚(もリずみつらな)(1809~1892)は、江戸後期から明治にかけて活躍した画家です。若い頃に徳島藩の絵師を勤め、明治維新後、60歳を過ぎてから大阪に移り、東京で開かれた第1回、第2回内国絵画共進会(ないこくかいがきょうしんかい)に出品して受賞しました。晩年には帝室技芸員(ていしつぎげいいん)に選ばれています。
貫魚の製作にまつわるエピソードを1つ紹介しましょう。明治17年(1884)、皇居内に明治宮殿が起工されましたが、その宮殿の障壁画(しょうへきが)を、当時有名であった多くの日本画家が分担製作しました。貫魚は奥御殿(おくごてん)の杉戸(すぎと)に「機織(はたお)り図」と「棕櫚図(しゅろず)」を描きました。その時の様子を、『大日本美術新報』第45号(明治20年刊) は次のように伝えています。
◯守住貫魚翁 先年絵畫(かいが)共進会に金賞を賜りて美名(びめい)を揚(あ)げし守住貫魚翁は曩(さき)に新皇居の御杉戸に機織の圖(ず)を描くべき由(よし)命ぜられれば老後の思い出是にまさる恩命(おんめい)なしと歓びて直ちに浪花(なにわ)の寓居(ぐうきょ)を立ち故郷阿波へ帰り織工に就(つ)いて屢々寫眞図(しばしばしゃしんず)を製し其上一つの雛形(ひながた)を作らせ之れを浪花の居に携へ帰りて座右(ざゆう)に置き始めて下畫(したえ)に掛(かか)りしか頃日出来(しゅったい)して内覧(ないらん)に入れたるに掛りの人々も其熱心を感賞し今時壮年の畫工(がこう)輩も此如(このごと)き心懸こそあらまほしけれと申せし由
貫魚は「機織り図」を製作するにあたり、故郷徳島に帰って機織りを実見し、スケッチを何枚も描き、雛形(小さな模型)まで準備して取りかかりました。故郷に帰ったのは、見学の当てがあったのと、地方に残る旧式の織機(おりはた)を参考にしたかったためかと思われます。
彼が描いた杉戸絵は、第二次大戦中に焼失しましたが、小さい模写が宮内庁書陵部(しょりょうぶ)に保存されています。それには、一台の織機にむかって女性が作業をしている様子が描かれています。この縮図(しゅくず)を、平成9年に当館の企画展で展示しました。川島織物文化館の藤岡年紀氏がたまたま御覧になられ、描写の確かさに感心されていたのを覚えています。
もっとも、貫魚が模型を作り、製作の参考にしたのはこれが最初ではありません。まだ藩絵師であった弘化3年(1846)、海難に遭(あ)ってメキシコに滞在していた、水主(かこ)の初太郎が徳島に帰ってきました。前藩主の命令により、彼の異国での体験談が『亜墨漂流新話(あぼくひょうりゅうしんわ)』にまとめられ、貫魚が挿絵(さしえ)を描きました。同書の識語(しきご)には、貫魚がワラをあつめ、土をこねて山川器物の形状をまね、木を刻み、紙を切り、細縄でつないで船楫(かじ)、帆柱などを作り、挿絵に写したと記されています。
ところで、貫魚の子孫の家には、彼が自作した模型がいくつか残されていました。それらは現在当館に保管されています。模型は木や紙、布、細紐などを使ったミニチュアが多く、実際に目にふれた古器物や、古画に描かれた道具を模しています。実例を数点あげてみましょう。
〈1〉和琴(わきん)
杉材を削って作り、赤色の紙を帯状に貼る。表面に「古杉木ヲ以テ造」「和琴」「天保九年戊戌十一月 定輝花押」、裏面に「図二有処ノ和琴多クハ宋ノ琴二/其製造二ヨル物多シ古形ヲ写也」、赤紙に「大和錦」の各墨書あり。長さ15.8m。
〈2〉古幣(こへい)
木と紙、竹と紙で作る。包み紙に「古幣二本」「応仁之比/木串之方 福富双紙」「時代不知/竹串 古書之物有処」「元治元年甲子九月日」の墨書あり。高さ各4.4cm。
〈3〉几帳(きちょう)
木を削って柱とし、紙で垂幕を作る。裏に「春日験記繪中有/慶應四年三月日 貫魚花押」の墨書あり。高さ16.0cm。
〈4〉御車之蝉(おくるまのせみ)
木製。表に「スレヤセシ」、裏に「元永二年九○セミノトメ/金メッキ」「御車之蝉/長六寸四分巾五分」の墨書あり。長さ19.6cm。
〈5〉百万塔
法隆寺の百万塔を木で、容器を紙で作る。総高36.7cm。
〈6〉前代女服
紙製。紙袋に「前代女服考 貫魚」なる一文があリ、末尾に「明治十年浅草御文庫ニテ寫」と記す。服の丈26.8cm、裳の丈24.0cm。
上にあげた以外にも、鎧(よろい)の小札(こざね)、刀の拵(こしらえ)、直垂(ひたたれ)の菊綴(きくとじ)、箙(えびら)の紐、奈良時代の足袋(たび)、牛車の車輪、火打袋、書嚢(しょのう)、梯子(はしご)の段、三脚の金具などさまざまな模型があります。当初は、これらを一つ一つ紙に包み、その表に貫魚、自身が名称などを記して保管していたようです。
貫魚はなぜ模型を作ったのでしょうか。『亜墨漂流新話』の挿絵のときは、ロで説明されるだけで、見たことのない事物を具体的にイメージするためでした。『機織り図』のときは、機織の構造そのものを理解するためだったと思われます。ものの形を構造まで含めて、立体として把握すれば、どのような角度からでも合理的に描けるようになるでしょう。
貫魚、は、やまと総を得意とする住吉派の画家でした。彼は古典文学をテーマに、虚構(きょこう)の世界を情感豊かに描きましたが、一方で、合理的な描写にも注意をはらいました。その本当の理由は、今後さらに考えてみなければなりません。