博物館ニューストップページ博物館ニュース022(1996年3月20日発行)田芋を知りませんか?(022号CultureClub)

田芋を知りませんか?【CultureClub】

民俗担当 庄武憲子

私は、芋を探しています。それは、田芋(たいも)、もしくは水芋(みずいも)という芋です。どなたかこの芋を見たこと、作ったことはありませんか?

1 田芋とはどんな芋か

図1田芋鹿児島県十島村(口之島)。赤い芽と白い芽の2種類がある。

図1田芋鹿児島県十島村(口之島)。赤い芽と白い芽の2種類がある。

 

 田芋の栽培は、薩南(さつなん)、奄美(あまみ)、沖縄、先島(さきしま)等の南西諸島では、わりとよく見かけることができます。その姿形は、一見すると里芋とほとんどかわりません(図1)。ただ、里芋とはっきり遣うのは、まず湛水(たんすい)(流水)、つまり水の中に植えて栽培するという点です。ちょうど稲を、水をいれた田圃(たんぼ)で育てるのと同じです(図2)。

図2 田芋栽培の様子。鹿児島県和泊町内城(沖永良部島) 。地元の人は「ターリウム」と呼んでいる。

図2 田芋栽培の様子。鹿児島県和泊町内城(沖永良部島) 。地元の人は「ターリウム」と呼んでいる。

 また、里芋は春植え付けて、その年の夏から秋にかけて収穫できますが、田芋は、芋の収穫に1年~2年かかり、植えたまま冬を越します。さらに植えているあいだ、芋の葉柄(ようへい)を随時(ずいじ)(特に夏季)とって野菜として利用します。最後に芋を食べた時、里芋に比べて非常にモチモチとした感じを受けます。これは田芋の芋に加熱すると粘着(ねんちゃく)性を増す独特の澱粉(でんぷん)がふくまれているためだといわれています。

2 儀札と田芋

 南西諸島においては、田芋が、年中行事や祭などのに使用される食物として、非常に大切な役割を果たしています。沖縄本島北部、与論島(よろんじま)、沖永良部(おきのえらぶじま)、奄美大島では、旧暦の一月十五日頃、先祖や神棚に、田芋を米粉、甘藷(かんしょ)などと混ぜ、練ったりついたりして作った、田芋の餅と呼べる食物を、供(そな)える行事を行ったことが聞かれます。例えば、与論島では、旧暦1月15日を「チキナー(月の真ん中)」といって、「ウン二一マイ」(田芋を煮て、米の粉を溶かしたものを混ぜ、芋の姿がまったくなくなるまでつぶしたもの)を必ず作り、先祖にお供えする行事がありました。このとき、ウン二一マイをたべないと「ミャンチックー(梟(ふくろう))」になるよという面白いいい習わしが伝えられています。さらに、沖縄本島北部、奄美大島、ト力ラ列島では、旧暦の霜月(しもつき)に芋祭が行われていた地域があり、収穫された田芋が供物として使われます。卜力ラ列島の一番北に位置する口之島というところでは、現在でも「霜月祭り」という田芋の収穫祭を見ることができます。(図3,4)

園3 口之島の霜月祭。ネージ(内侍)と呼ばれる女性と、ホーイ(祝人)と呼ばれる男性の神役を中心に行れる。

園3 口之島の霜月祭。ネージ(内侍)と呼ばれる女性と、ホーイ(祝人)と呼ばれる男性の神役を中心に行れる。

図4 霜月祭のために集落軒軒から白芋が 集められる様子(A)と集められた芋 (B)。田芋を作っていない家では、里芋や 甘藷をかわりに出す。

図4 霜月祭のために集落軒軒から白芋が 集められる様子(A)と集められた芋 (B)。田芋を作っていない家では、里芋や 甘藷をかわりに出す。

3 稲以前の作物としての田芋

行事において、先祖、神棚への供物に使用されたり、収穫祭が存在していることなどから、南西諸島においては、田芋が何か重要な意味を持つ作物であったことが窺(うかが)えます。事実、水の中に植えられた芋は、獣害(じゅうがい)にあいにくく、さらに、芋だけでなく葉柄も食料として使用できるという利点などがあげられ、大事にされてきました。いわば、南西諸島には、田芋文化と呼べるものが存在していると考えられるのです。
 また田芋の栽培は、芋の上部から葉柄の根元の下の方をきりとったものを植えつけて、芋が大きくなったら必要な分だけ収穫する、また、道具も鍬(くわ)一つあればことたりる、という非常に原初的なものです。そのうえ、先にも書いたように、水田で栽培する稲と栽培方法が類似すること、芋餅としての使われ方などから、水田稲作が行われる以前に、水田芋作が行われていたのではないかという考えもあります。田芋の存在は、日本の農耕の歴史を考えるのに意義あるものなのです。

4 黒潮の流れと田芋

最後に南西諸島で栽培される田芋がどこからきたのかということを考えましょう。この芋は熱帯型のものとされ、南方から入ってきたことがいわれています。先島諸島をへた台湾、紅頭嶼(こうとうしょ)でも、同様に田芋作が行われており、収穫感謝祭に、粟、山芋、里芋などとともに田芋が供えられることも報告されています。ちょうど黒潮の流れにそって、田芋文化が展開しているのです。さらに、この南からの田芋文化はどこまでつながっているのでしょうか?南西諸島を北上すると、田芋の存在は珍しいものになりますが、九州や、中国地方、伊豆諸島等で、ぼつぼつと田芋の栽培が報告されています。徳島県にほど近い、淡路島の南西にある沼島(ぬしま)という島でも、田芋栽培があったことがいわれています。しかし、これらが南西諸島での田芋と同じ種類のものかはっきりわかっていません。
 また、田芋の栽培はなくても、里芋のことを「タイモ」と呼ぶ地方はたくさんあります。
 特にお隣の、黒潮に直接面する高知県では、里芋のことを「タイモ」と呼ぶのが通常です(図5)。

図5 里芋の名称を新たした地図 TAIMO (●),丁目MO(帯), TEEMO (*), TAIMBO (•I•), TANBαMO (国),T AHCC8 (T) (園立国語学研究所f日本言語地 図4J、19'70より作図)

図5 里芋の名称を新たした地図 TAIMO(●),TEIMO(・), TEEMO (★), TAIMBO (*), TANBOMO ■),TAHODO (▼) (国立国語学研究所「日本言語地 図4」、1970より作図)

私はこのような地域では、かつては黒潮の流れにそって伝わった田芋が存在していたのではないかと思っているのです。そこで、その証拠をつかむために田芋を探しているわけです。どうぞ、田芋やそれに似た芋に心あたりのある方は、県立博物館にご一報ください。よろしくお願いいたします。

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