博物館ニューストップページ博物館ニュース128(2022年9月15日発行)大久保家から寄贈された漆器類―半田漆器に関わる資料―(128号速報)

大久保家から寄贈された漆器類―半田漆器に関わる資料―【速報】

美術工芸担当 大橋俊雄

半田漆器(はんだしっき)は、江戸時代から昭和にかけて、現在の徳島県美馬郡つるぎ町半田の地で生産されました。もとは木地師(きじし)が挽(ひ)いた素木(しらき)の椀(わん)や盆(ぼん)だったものを、漆(うるし)を塗って出荷したのが始まりといわれます。宝暦(ほうれき)8年(1758)に、敷地屋(しきじや)利兵衛(りへえ)が半田村内に塗り物を扱う店を開いたのが、発展の端緒(たんちょ)と伝えられます。文化8年(1811)には徳島藩によって塗物(ぬりもの)御問屋(おんといや)が設置され、保護と統制を受けるようになります。阿波のほか、近畿の大坂、四国の讃岐(さぬき)、中国の備中(びっちゅう)、備後(びんご)、安芸(あき)などで販売され、やがて山陰や九州、関東方面へも出されました。

明治になり藩の関与がなくなると、敷地屋利兵衛の子孫である大久保弁太郎が、半田漆器の製造販売を一手に握ります。木地師、指物師(さしものし)、塗師(ぬし)などの職人を使い、日用品の漆器を製造して国内で売りさばき、資産を築きました。しかし弁太郎は大正8年(1919)に没し、大久保家は同15年(1926)に廃業します。また明治の後半からは製造業者の分立がはじまり、やがて自立した塗師による零細(れいさい)経営に移行します。産業としての半田漆器は次第に衰え、昭和40年代に幕を閉じました。

半田漆器の製造販売には、大久保家を中心とする敷地屋一統が長らく力を振るいました。当館は、敷地屋大久保家の末裔(まつえい)の方から、令和4年6月に漆器類約1,300点の寄贈を受けました。

これらの漆器は、大久保家が自邸(じてい)で使用した食器が主体であり、半田漆器と他産地の漆器が混ざっています。大半の漆器は、墨書(ぼくしょ)のある木箱に収納されますが、墨書と中身が一致しないものが多く、受け入れに当たり応急的に組み合わせを復元しています。また半田の産と思われる漆器は、墨書と中身がたとえ一致しても、塗り直しなどの修復を受け、同じ仕様の別の品に差し替わっている可能性があります。

図1 丸膳 嘉永5年(1852)作 赤色の漆を施した膳。内面にはケヤキの木目があらわれます。

以上のような問題はありますが、大久保家の漆器類は、半田漆器を理解するうえで非常に重要な資料といえます。漆器はもともと産地や年代の判定が難しいといわれます。今日一般の方が、江戸から昭和の間に作られた、確かな半田漆器を目にする機会はあまりないと思います。寄贈品の整理が進めば、確実な半田漆器が示され、技術的な面にも踏み込んで検討できるのではないかと期待されます。

図2 平椀 蓋付きの平らな椀。外側に濃い緑色の漆、内側に赤色の漆が塗られます。 緑漆塗は、庶民の漆器では上等な仕上げでした。

 

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