博物館ニューストップページ博物館ニュース027(1997年7月1日発行)沖縄・熊野信仰・補陀落渡海(027号CultureClub)

沖縄・熊野信仰・補陀落渡海(ふだらくとかい)【CultureClub】

歴史担当 長谷川賢二

はじめに

1988年の秋、当時大学院生だった私は、研究室旅行で沖縄を訪ねたことがあリます。沖縄県立図書館内の沖縄史料編集室を訪問して論文や史料写真をめくっているとき、「熊野(くまの)」という文字が自に飛び込んできました。熊野先達(せんだち)を中心とする山伏(やまぶし)の動向を研究していたので、沖縄に熊野信仰(和歌山県にある熊野三山の神仏をめくる信仰)が伝播していたということに、興味をそそられましたが、そのままになっていました。

それから7年たった1995年10月、再び沖縄を訪れる機会を得たので、霊場や関係史料について知りたいものだと思い旅立ちました。幸い、沖縄宗教史がご専門の小島瓔禮氏(琉球(りゅうきゅう)大学教授)に多くのご教示をいただくことができました。以下、そのときの見聞や文献によりながら、沖縄の熊野信仰について述べてみたいと思います。

沖縄の熊野信仰霊場

熊野信仰と沖縄というと、いささか奇異な感じがあるかもしれません。私たちの沖縄に対するイメージは、とかく「異国」的な側面に傾きがちだからです。確かに、近代初頭の「琉球処分」まで、沖縄には琉球王国という独自の国家があリ(すでに江戸時代に薩摩(さつま)藩の支配を受けていましたが、王国は存続しました)、15~16世紀をピークに日本本土を含む東アジア・東南アジアの広い範囲での交流が行われていました。その中で沖縄文化がはぐくまれてきたわけですから、「異国」的なイメジは当然のことです。しかし、広範な文化交流ということを考えれば、本土から流入した文化の痕跡に注意してみる必要もありそうです。熊野信仰霊場はそうした「痕跡」の例でもあります。

図1 波上宮と洞窟

図1 波上宮と洞窟

 

では、沖縄本島の代表的な霊場に限って紹介してみましょう。本島には「琉球八社」として古くから知られる神社があります。いずれも本来は「権現」を称し、近代初頭の神仏分離に至るまで真言宗寺院と一体の、典型的な神仏習合思想に基づいた聖地でした。「八社」および寺院とは、波上(なみのうえ)宮・護国寺、沖宮・臨海寺、天久(あめく)宮・聖現(しょうげん)寺、八幡宮・神徳寺、識名(しきな)宮・神応寺、末吉(すえよし)宮・遍照寺(以上、那覇市)、普天間(ふてんま)宮・神宮寺(宜野湾市)、金武(きん)宮・観音寺(国頭郡金武町)です。これらのうち、八幡宮以外の7か所までが熊野信仰の霊場で、多くが洞窟を伴っていることに特徴があります。私たちは波上宮、天久宮(聖現寺内)、普天間宮、金武宮(観音寺内)の4か所を訪ねましたが、いずれも洞窟のある霊場でした(金武宮・観音寺の洞窟は泡盛メー力ーの貯蔵庫になっていました)。

洞窟との関係については、宗教学者の宮家準氏の見解によれば、本来他界への入口という観念があり、そこに本土からの信仰が習合したものと考えられるようです。

伝統的に沖縄と文化的関係の深かった奄美の徳之島にも、洞窟に宗教的な性格が与えられた喜念(きねん)権現という神社があります。また、日本本土の修験道関係の霊場でも、洞窟がある例(奈良県大峰山や福岡県求菩提(くぼて)山、大分県国東(くにさき)半島など)が多々あります。洞窟に聖地としての意味付けがなされることは、かなり普遍的だったのかもしれません。
琉球八社に含まれる熊野信仰霊場の正確な成立時期はわかりませんが、宮家氏は15~16世紀頃のことと考えています。浄土宗の僧侶である袋中(たいちゅう)が執筆した『琉球神道記』(1605年)には、八社のうち、金武宮以外の七権現について「当国大社七処アリ。六処は倭ノ熊野権現。一処ハ八幡大菩薩ナリ」と記されていますから、この頃までには熊野信仰が伝播し、「大社」といわれるほどの霊場が形成されていたのでしょう。

補陀落渡海僧(ふだらくとかい)と沖縄

では、沖縄に熊野信仰を伝えたのは誰なのでしょうか。まず、沖縄出身の僧が日本本土から持ち帰るかたちでの伝播があります。例えば、『琉球神道記』の「末吉権現事」には、日本本土へ修行に行った鶴翁(がくおう)による勧請という記載があります。
また、補陀落渡海(ふだらくとかい)を志した本土の僧が沖縄にたどり着くという場合があり、私としてはこちらのほうに興味を感じます。補陀落渡海とは、南方の海上にあるといわれた観音浄土(補陀落山)へ往生しようという信仰から船出することをいいます。これに関しては、琉球王府が編纂した『琉球国由来記』(1713年)に収められた金峰山観音寺(金武宮・観音寺)の縁起が注目されます。日本本土の僧侶である日秀(にっしゅう)は、補陀落山を目指したものの、結局は沖縄に着き、観音寺を開いたというのです。
補陀落渡海の例は、記録や説話文学に散見されます。人数を断定することはできませんが、何人もの僧侶たちが南方へと旅立ったのです。行方不明になる例が多かったでしょうが、日秀と同様、沖縄に漂着して信仰文化の伝播に何らかの役割を果たした無名の僧たちがいたのではないかと思われます。

図2 普天間宮外観

図2 普天間宮外観


補陀落渡海の拠点となったのは、熊野那智山や室戸岬、足摺岬などでした。11世紀初頭には、阿波出身の賀登上人という僧侶が足摺岬から補陀落渡海のために船出をしたという説話もあります(『地蔵菩薩霊験記』) 。このようなことを念頭に置くと、補陀落渡海の僧を媒介とした沖縄への熊野信仰の伝播も、阿波の歴史とかすかな接点を持っている可能性が考えられるのです。
なお、阿波は紀伊半島に近いためか、熊野信仰はかなりポピュラーなものでした(中世の熊野信仰関係史料も伝えられています)。したがって、賀登のような人物が登場する素地は十分にあったといえます。

図3 普天閣宮の洞窟

図3 普天閣宮の洞窟

おわりに

沖縄の熊野信仰について、簡単な紹介をしてきました。史料がほとんどないため、詳しいことは分からないままですが、背景にあった日本本土と沖縄の文化交流の一端をご理解いただければ幸いです。

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