博物館ニューストップページ博物館ニュース040(2000年9月16日発行)アメリカ軍投下ビラ(040号館蔵品紹介)

アメリカ軍投下ビラ【館蔵品紹介】

歴史担当 山川浩實

日本は、1941年(昭和16)からアメリ力・イギリスなどの連合国(れんごうこく)との間で戦争を開始しました。この戦争は、太平洋戦争と呼ばれています。開戦してまもなく日本軍は、重要な拠点(きょてん)をつぎつぎと失い、日本の本土近くまで後退していきました。

1945年(昭和20)7月22日、連合国は、日本に対して降伏(こうふく)の勧告(かんこく)を宣言(せんげん)しました。これはポツダム宣言と呼ばれています。

資料は、このポツダム宣言による日本への降伏勧告などが詳(くわ)しく記されたビラで、アメリ力軍の航空機から、徳島市内に投下されたものです。資料の寄贈者・今枝靖雄(いまえだやすお)氏によれば、このビラは、8月15日の敗戦の3日ほど前、同氏が吉野川下流の右岸堤防下(現徳島市住吉4丁目付近)の葦(あし)が生えた湿地帯(しっちたい)で発見したものといわれます。同氏はここで、2枚のビラを発見しましたが、「周辺には、これ以外にもビラが投下されていたのではないか。」と語っています。

図1アメリカ軍の航空機から時志摩市内に投下された降伏勧告のビラ(表)

図1アメリカ軍の航空機から時志摩市内に投下された降伏勧告のビラ(表)

 

図2ビラが発見された地点(●印、徳島市住吉4丁目付近。1:200,000地勢図)

図2ビラが発見された地点(●印、徳島市住吉4丁目付近。1:200,000地勢図)

ビラには、「日本の皆様」と題され、表と裏に、日本語でおよそ600字近い文字がビッシリと記されています。これによれば、8月10日、日本政府はポツダム宣言を受け入れる条件として、天皇を中心とする体制を保つという条件つきで降伏することを連合国に伝えています。しかし、連合国はこれを拒否し、無条件降伏を強く求めました。そして8月15日、日本は無条件降伏し戦争は終結しました。

このビラには、無条件降伏を求めた日本政府への通告(つうこく)文の発信日が8月11日と記されています。したがってこのビラは、8月12日から敗戦前日の14日までの3日間に、アメリ力軍の航空機から、徳島市に投下されたビラであることが推定されます。

図3ビラが発見された吉野川下流右岸の堤防下。画面右上の白い建物 (老人福祉施設「白寿会」)の堤防下付近。

図3ビラが発見された吉野川下流右岸の堤防下。画面右上の白い建物 (老人福祉施設「白寿会」)の堤防下付近。

太平洋戦争の末期に、アメリ力軍が日本に対して、都市の爆撃(ばくげき)を予告した3種類のビラと、核攻撃(かくこうげき)を警告した1種類のビラを投下したことが、現在明らかになっています。しかし、ポツダム宣言による降伏の勧告などが記されたこのビラについては、現在、投下地域や投下軍団など、重要なことはまったく明らかにされていません。徳島市に投下されたこのビラは、恒久(こうきゅう)平和を求めるためにも、きわめて貴重な資料であると考えられます。

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