Q.多樋式(たひしき)・深樋式(ふかひしき)銅剣は細形銅剣とどこが違うのですか?【レファレンスQ&A 】
考古担当 高島芳弘
A.徳島県からは銅鐸が多く出土することもあって、銅鐸に関する質問はよくあるのですが、同じ弥生時代の青銅器である銅剣などについても、徳島県とはあまり関係のなさそうなのですが、質問が寄せられることもあります。
図1 弥生青銅器復元品 (左から銅矛、銅鐸、銅文、銅剣)
銅剣は弥生時代前期末に朝鮮半島南部から北部九州にもたらされた青銅器です。銅剣といっしょに矛(ほこ)・戈(か)の武器類、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、小銅鐸や斧・鑿(のみ)・鉇(やりがんな)の工具類などの青銅器も伝えられました。後に内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)などの漢の鏡も朝鮮半島を通じて多く輸入されました。また、鋳造技術そのものも伝えられ、剣・矛・支の武器類と銅鐸は日本で盛んに鋳造されるようになりました。
銅剣の部分は、大きく分けて、刃のついた身と手で握る柄とからなります。身と柄をいっしょに鋳造する方法と、別々に鋳造して組み立てる方法とがあります。日本では組み立て式のものが多く、銅剣の身の中央には背骨状の高まり (脊(むね))を持ち、脊の両側には一対の血流しの溝(樋(ひ))が彫られています。脊は剣尾から突出し柄に差し込むための茎(かなご)となります。
図2 銅剣の部分名称
銅鐸、青銅製の武器類ともに新しくなるほど大きくなり、装飾性を増して実用性を失い、祭器として使われたと考えられています。銅剣もその身の幅と大きさを基準として分類され、細形銅剣、中細形銅剣、中広形銅剣、平形銅剣(広形銅剣)と変遷したとされています。細形銅剣は北部九州で多く発見されていますが、朝鮮半島産のものばかリでなく日本産のものもあると考えられています。新しくなるにつれて瀬戸内沿岸および大阪湾周辺での製作や使用が盛んになります。いちばん新しい平形銅剣の分布の中心は瀬戸内海沿岸地方です。
多樋式銅剣、深樋式銅剣は、樋に注目した名称で 多樋式銅剣には脊が無く、鋒(きっさき)から茎まで全面に4本の樋が平行して連続的に彫られています。深樋式のものは1対の樋がしっかりと深く彫られており、これには身といっしょに柄や鞘(さや)の飾り金具も出土しているものもあります。
北部九州で数例の出土例が認められるだけなので、輸入青銅器として細形銅剣の中に含められて考えられることもあリましたが、弥生時代中期後半以降と新しく、茎の加工の仕方が細形銅剣とは異なっているので、別グループではないかと考えられています。
以上で、多樋式銅剣、深樋式銅剣と細形銅剣との違いは大まかに説明しましたが、多樋式銅剣、深樋式銅剣というのは樋の形や数に注目して命名したもので、細形銅剣、中細形銅剣、中広形銅剣、平形銅剣(広形銅剣)という身の幅の広さという視点によって行われた分類とは相容れないものです。
考古資料については、分類するときに色々な視点で行うことが多いので、同じものに別の名前が付けられることはよくあリます。一方は樋の形、もう一方は身の幅という異なる視点で名付けられたために、多樋式銅剣、深樋式銅剣と細形銅剣がどのように異なるのかということがわかリにくくなったのだと思います。