蜂須賀家の御家騒動

歴史担当 山川浩實

はじめに

四国最大の大名、蜂須賀家(はちすかけ)において、1633年(寛永10)に勃発(ぼっぱつ)した御家騒動(おいえそうどう)は、「益田豊後事件(ましだぶんごじけん)」と呼ばれる大きな事件でした。この御家騒動は、門閥(もんばつ)家老の益田家と官僚(かんりょう)的家老の長谷川家との対立を背景に発生したもので、蜂須賀家の存続に関わるきわめて重大な事件でした。
この御家騒動は、その後の蜂須賀家の政治体制に大きな影響を与え、政治体制が軍事支配体制から官僚支配体制に移行していく一つの大きな契機(けいき)となりました。そうした意味で、この事件の持つ意義は大きいものがあります。ここでは、益田豊後事件に関する基本的史料などから、蜂須賀家の土台を大きく揺(ゆ)るがせた御家騒動の内容について紹介したいと思います。

御家騒動の背景と顛末(てんまつ)

蜂須賀家は、阿波(あわ)・淡路(あわじ)の2国を領地とした外様(とざま)の大きな大名です。その蜂須賀家の家老を務めた益田豊後は、同家の支配体制の基礎を確立した蜂須賀家政(いえまさ)とは従兄弟(いとこ)に当たり、同家の一族として、重要な地位にありました。しかも、益田家は家臣団の中では、首席家老稲田(いなだ)家、次席家老賀島(かじま)家に次ぐ家格として、軍事支配体制の中で、強大な権限を持った有力な家老でした。これに対して、益田豊後と対立した官僚的家老の長谷川越前(えちぜん)は、蜂須賀家の家老の中では、ほぼ下位に位置する家老でした。
さて、蜂須賀家では、どのような御家騒動が起こったので、しょうか?
1633年(寛永10)、海部(かいふ)郡の知行地をめぐる益田豊後の不正が蜂須賀家の役人によって摘発されました。その結果、豊後は家老職と領地とを没収(ぼっしゅう)され、投獄(とうごく)されるという、従来、まったく例を見ない驚くべき事件が発生しました。豊後の直接の不正は、私腹(しふく)をを肥やすため、海部郡内の桧などの良木(りょうぼく)を密売したことをはじめ、自己の領地であった海部郡の農民に重い年貢を強制したことでした。そのため、100人近い海部郡の農民が土佐(とさ)国に逃げ込むという作きわめて大きな騒動に発展しました。そのため、豊後は責任を問われ、13年間にわたって、名西郡大粟山(みようざいぐんおおあわやま)(神山(かみやま))の山中に投獄されました。すなわち、蜂須賀家では多数の農民の逃散(ちょうさん)事件を発生させた豊後に対して、同家の一族として強大な権限を持った家老の立場を否定し、豊後を長年にわたって、山中に投獄するという、重臣の処分としては、きわめて厳しい刑罰(けいばつ)を断行したのでした。
これに対して、豊後は自分に対する処罰(しょばつ)を恨(うら)み、義弟(ぎてい)の金沢(かなざわ)藩主前田(まえだ)家の浪人阿彦佐馬丞(あびこさまのじょう)を利用して、徳川幕府に蜂須賀家の不正を訴えました。豊後が訴えた13箇条の中でも、そのうちの3箇条は、特に蜂須賀家の存続に関わるきわめて重大な事項で、大名を統制した法律である「武家諸法度(ぶけしょはっと)」に大きく違反するものでした。その不正とは、幕府が禁止した大船の建造、キリシタン疑惑(ぎわく)の未調査、そして幕府への謀叛(むほん)という、きわめて重大なものでした。このことが事実であれば、蜂須賀家は幕府から、ただちに取りつぶされる危険な運命にありました。蜂須賀家では、まさに例のない最大の危機を乗り切るため、若い藩主忠英(ただてる)を中心にして、対策が練(ね)られました。この時、参勤(さんきん)交代のため、江戸にいた忠英は、危機を打開するため、国もとの家老6人に対して、事件の解決策や経過などを報告すると共に、細かい指示をあたえた長文の書状を書き送っています。現在、その書状は当館が所蔵しています。この書状が、益田豊後事件に関する基本的史料として、高く評価される史料です。
この史料は、1645年(正保2)に制作されたと考えられる書状で、豊後が幕府に訴えた13箇条に関して、蜂須賀家が調査の開始を幕府に願う直前の緊迫(きんぱく)した同家の情勢を示す史料です。この史料によれば、次の4点について、蜂須賀家の重要な情勢を知ることができます。
1) 江戸もしくは京都・大坂などにおける動きに関し、蜂須賀家が事件に関わるあらゆる情報を収集していたこと。
2)藩主忠英の命令によって、事件に関わる重要な事項に関し、蜂須賀家内における厳重な機密の保持を行ったこと。
3)金沢藩前田家による同藩の浪人阿彦佐馬之丞の殺害の噂(うわさ)に関し、蜂須賀家が金沢藩に対し、事実の有無を明瞭(めいりょう)に確認したこと。また、阿彦が金沢藩によって殺害された場合、蜂須賀家の立場が不利になるため、金沢藩の態度によって、蜂須賀家は阿彦に対する金沢藩の手出しをいっさい阻止する決意であったこと。
4)この頃、事件解決の展望は、「爰元(ここもと)二ても沙汰(さた)なし之分(ぶん)二候」とあり、蜂須賀家をめぐる形勢はいちじるしく不利的な情勢で、断絶の危機的な状況に直面していたことが推察される。そのため蜂須賀家では、幕府などの重要な人物の指示を受け、最後の挽回(ばんかい)をはかるため、あらゆる対策を練っていることを家老に報告し、本国におけるいっさいの動揺(どうよう)を制止したこと。
幕府では、13箇条の訴えに対して、豊後と長谷川越前とを訴訟を裁決(さいけつ)する幕府の評定所(ひょうじょうしょ)で対決させ、裁決することとなりました。その結果、重大な事項であった3箇条は、越前の反論によって、いずれも豊後の偽(いつわ)りであることが判明しました。そして益田豊後事件は、蜂須賀家側の全面的な勝利で決着し、蜂須賀家は危機的状況を回避しました。一方、豊後は幕府の採決後、藩主忠英に預けられ、江戸から阿波へ護送中、病死しました。しかし、蜂須賀家では、豊後がたまたま病死せず、阿波に護送された場合、藩主に対するいちじるしい反逆行為(はんぎゃくこうい)として、豊後を最高の重罰である斬罪(さんざい)の処分を行うつもりでした。
この事件は、蜂須賀家との一族関係をバックに、権力を乱用した家老と幕藩体制の中で、新しい時代に立ち向かおうした官僚的な家老長谷川越前との対立が原因でした。幕府でも、この事件を重視し、『徳川実紀(とくがわじっき)』に裁決のようすを記録しています。こうして、蜂須賀家の土台を大きく揺るがせた御家騒動は、13年間におよぶ長い年月を費(つい)やして終結しました。

 図1 2代徳島藩主忠英書状(巻頭部)

 図1 2代徳島藩主忠英書状(巻頭部)

図2 同書状 (中軸部)蜂須賀家の危機的状況が国もとに報告される 。

図2 同書状 (中軸部)蜂須賀家の危機的状況が国もとに報告される 。

図3 同書(巻末部)

図3 同書(巻末部)

おわりに

益田豊後事件が終結した後の蜂須賀家の政治体制は、大きく変化しました。幕府による一国一城令の施行によって、阿波九城が廃棄(はいき)され、軍事支配体制が崩壊しました。これを契機に政治体制は、益田豊後事件も大きく影響し、官僚支配体制へと移行しました。その後、多くの軍事に秀(ひい)でた家老が淘汰(とうた)され、権力の集中を回避するため、家老5~6名による仕置(しおき)体制が確立しました。これによって、藩主が直接政治を行う直仕置(じきしおき)の体制から、仕置家老が直接政治を行う家老の仕置体制に移行しました。これにともなって、支配機構の基礎的な役職も整備され、しだいに機構の整備が行われました。
このように、益田豊後事件は蜂須賀家の政治体制に大きな影響をあたえた事件として、とらえることができます。

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