博物館ニューストップページ博物館ニュース119(2020年6月25日発行)香川県高松市 屋嶋城跡(119号歴史散歩)

香川県高松市 屋嶋城跡(やしまのきあと)【歴史散歩】

考古担当 岡本治代

7世紀の東アジアは、朝鮮(ちょうせん)半島に存在した高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の三国が互いに対立し、中国(ちゅうごく)大陸の唐(とう)も朝鮮(ちょうせん)半島に侵攻するなど、非常に不安定な情勢にありました。唐・新羅によって百済が滅ぼされると、百済と同盟関係にあった倭(わ)(日本)も、663年(天智(てんじ)2)に朝鮮半島の白村江(はくそんこう)へ援軍を派遣しますが、大敗し、撤退(てったい)を余儀(よぎ)なくされます。720年(養老(ようろう)4)に完成した歴史書『日本書紀(にほんしょき)』には、665年から670年にかけて北部九州(きゅうしゅう)から瀬戸内海(せとないかい)沿岸各地における築城(ちくじょう)記事がみられ、白村江での大敗を受けて、唐・新羅の侵攻に備えて日本列島の防衛が強化されたことがわかります。今回紹介する屋嶋城(やしまのき)も、この時期に築かれた山城のひとつです。

屋嶋城は、667年に築城されたとの記述が『日本書紀』にみられますが、長らく明確な遺構が確認されておらず「幻の城」とよばれていました。しかし、1998年(平成10)に、屋嶋城跡を探索していた地元の研究家によって屋島南嶺(やしまなんれい)南西斜面において安山岩の石積みの一部が発見されたのをきっかけとして、香川(かがわ)県高松(たかまつ)市教育委員会による発掘調査が行われました。その結果、2002年に城門跡が確認され、ついに屋嶋城の存在が証明されました。2016年には、城門跡の復元整備が完了し、自由に見学することができるようになっています。

この城門には、敵の侵入を阻(はば)むさまざまな工夫がこらされています。まず、城門の手前には、「懸門(けんもん)」とよばれる高さ2.5mほどの段差が設けられています(図1)。普段は梯子(はしご)をかけて出入りしますが、敵が攻めてきた際には梯子を外して、外から侵入できなくします。また、城門を入ると、岩盤が行く手を阻む「甕城(おうじょう)」とよばれる構造になっており(図2)、侵入者を左手(北側)へ誘導することで侵入者の横から矢を射(い)かけられる仕組みになっています。このような特徴的な構造は、朝鮮半島の山城と共通しており、屋嶋城の築造(ちくぞう)に朝鮮半島の人たちが関わっていたことを物語っています。

図1 屋嶋城跡城門(南から)

図1 屋嶋城跡城門(南から)

図2 甕城(東から)

図2 甕城(東から)

 

 

カテゴリー

ページトップに戻る