画家の藤重春山についておしえてください【レファレンスQandA】
美術工芸担当 大橋俊雄
A.昨年の秋に、博物館の常設展で藤重春山(ふじしげしゅんざん)筆の「鳴門之図(なるとのず)」と「祖谷山葛橋之図(いややまかずらばしのず)」(図1)を展示しました。どちらも色彩の淡いやや地味な作品ですが、阿波の名所を描いているのが注目されます。当館にはほかに、春山筆の「津峯石門図(つのみねせきもんず)」と「轟泉(とどろきのいずみ)図」があります。鳴門、祖谷かずら橋、津峯石門、轟滝(とどろきのたき)の4か所は、いずれも文化(ぶんか)11年(1814)刊の『阿波名所図会(あわめいしょずえ)』にとりあげられた名所です。
図1 藤重春山筆「祖谷山葛橋之図」
藤重家については、当ニュース65号(2006年12月発行)で、「藤重と阿波蜂須賀(はちすか)家」と題して紹介しました。この一族は、茶の湯の歴史では「塗師(ぬし)藤重」として知られています。上の記事では「鳴門之図」と「轟泉図」の写真を載せましたが、春山本人にはあまり触れませんでしたので、ここで補足しておきたいと思います。
書画家に関する地元の文献類には、春山の経歴が簡潔に記されています。また子孫の方のご協力を得て調査しても、結果はほぼおなじでした。
春山はもとは京都(きょうと)の人で、文政(ぶんせい)11年(1828)に信常の子として生まれました。家は代々蜂須賀家に出入りしています。初名源次郎(しょめいげんじろう)、のち常師、通称左衛門(さえもん)、明治になってから与四郎(よしろう)を名のります。横笛の吹き手で、京都にいたころは御所の祭典儀式(さいてんぎしき)のおりに召されて奏(そう)しました。また南画(なんが)を中林竹洞(なかばやしちくとう)(1776-1853)に学び、春山の号(ごう)と後素亭(こうそてい)の別号(べつごう)を用いました。
明治(めいじ)2年(1869)に徳島(とくしま)に移住しました。弟子をとって画(え)を教え、同17年(1884)に第2回内国絵画共進会(ないこくかいがきょうしんかい)に出品します。同28年(1895)に68歳で没しました。徳島市の瑞巌寺(ずいがんじ)に墓があったそうですが、いまは確認できません。
移住後の春山については、作品と記録があまり残りません。ただ、徳島師範(しはん)学校の教諭(きょうゆ)であった須木一胤(すきかずたね)(1873-1936)が、本県において明治維新(いしん)後も南画がすたれなかった例として、藤重春山が門戸を構えて多くの門生(もんせい)を養成した、と記しています(「学制頒布以降(がくせいはんぷいこう)ニ於(お)ケル絵画(かいが)ノ変遷年表(へんせんねんぴょう)」草稿(そうこう)、大正(たいしょう)12年(1923)以前(図2))。
図2 須木一胤「学制頒布以降ニ於ケル絵画ノ変遷年表」(部分)
また、春山が描いた画手本(えてほん)を、県内の個人の方に見せてもらったことがあります。木製の表紙がある2帖(じょう)の折本(おりほん)でした。ページを開くと、色々な山水図(さんすいず)が収められ、なかには当館の作品とおなじ「祖谷山葛橋図」、「鳴門之図」、「津峯石門見表(みあらわし)図」もありました。そして「鳴門之図」には、明治22年(1889)に当てられる己丑(きちゅう)の干支(えと)が記されていました。彼はこうした手本を使って、弟子を指導したと思われます。