寺町を訪ねて【CultureClub】

 普及係 中村顕也

はじめに-歴史散歩「寺町を歩こう」

博物館の普及行事の中で、野外で実施する行事は、自然系・人文系ともに人気があり、募集た員をオーバーして、参加者を抽選で決めねばならない時がしばしばあります。ここでは、とりわけ参加希望者の多い歴史散歩のひとつである「寺町を歩こう」(平成6年10月2日実施、担当山川浩實人文課長)について、参加者の声も紹介しながら、普及係として同行した私の所感も述べ、当日のコース(地図①~⑨の順)をたどってみることとします。

寺町周辺図、番号は本文を参照

寺町周辺図、番号は本文を参照

 

寺町-名は体をあらわす-

集合時間(9時30分)より早く、集合場所(地図①)へ来られた参加者の方が、「それにしても寺が多いのう」との話をされており、おそらく何度か寺町へ足をはこばれての感想だと思います。とにかく寺町へ一歩足を踏み入れたら「寺が多い」という印象を持つのはごくあたりまえだと思います。そして、なぜこのように集まったのかという疑問がごく自然にわいてきます。それに対して、参加者集合後、行事のスタートに際し、山川人文課長(以下山川と記す)は、16世紀末の蜂須賀家政の城下町づくり以降、「軍事」的な意図のもとに形成された町であると説明しました。しかし、その話に参加者の方は(私も含めて)、なるほどと一応納得できたのですが、現代の寺町から「軍事」という意味を実際に感じられる人は、なかなかいないのではないかと思います。「軍事」というより、もっとも「非軍事」なところとして寺町をとらえ、「やたら寺が多いから寺町」という単純で実質的な認識が、最もわかりやすい現代的理解だと思うのですが(しかし、こんなことを言っていると行事になりません)。

瑞巌寺から本行寺へ -墓石との記念撮影-

瑞巌寺(地図②)は、寺町からすこしはずれた東山手町にある禅寺です。この寺は見どころが多いのですが、今回は、地蔵堂の中の切支丹地蔵と徳島藩の馬術指南役である岩田七左衛門政長の墓を見学しました。何回も端巌寺を訪れたことのある方でも、「このようなものがあるとは、まったく知らなかった」と、感嘆していました。当日も、何か催し物があったらしく、人の出入りも多かったのですが、切支丹地蔵に目をむける人はいなかったようでした。また、裏山の墓地では、墓石の立派さ、多様さ、数の多さに驚かされたと感想を述べる方もいました。
次におとずれたのは潮音寺(地図③)で、この寺には、モラ工スと福本ヨネ、斉藤小春の墓があります。モラ工スはポルトガルの外交官として来日し、退職後来県(1913年)しました。彼の徳島での生活の様子や考え方などは、墓からでは想像もつかないので、山川より詳しい説明がありました。その後、全員が墓をぞんぶんにながめ、墓の写真をとり、やがて墓とともに写真におさまる方もでるほどでした(この様子は、第3者の目にはどううつったでしょう。すこし興味があります)。
次の本行寺(地図④)には、三好長治やタ霧の墓があります。本行寺と関係の深い勝瑞城主三好長治は、1577年、25歳で自害しますが、戦国期の阿波を語るにはなくてはならない人の一人だと思います。タ霧の墓もそうですが、やはり墓石だけを見ても、それ以上のものとはなりません。山川による適切な説明が、思考を墓石から大きく飛躍させ、戦国期の阿波や江戸期の芸妓タ霧にまで、思いをめぐらせることになりました。当然の結果として、ここでも親しみ(?)をこめて墓石との記念撮影がおこなわれました。普通の墓地で普通のお墓といっしょに写真におさまることはまずありませんし、仮にあればかなり妖しい写真かもしれません。しかし、この行事のように、普通の墓地で、説明等でよく理解された人物の普通の墓石との記念写真は、単なる墓石との写真というより、私たちを過去の世界と結んでくれる写真といえるかもしれません。

春日神社から東宗院へ -太平洋戦争の爪痕-

太平洋戦争の末期には、ほぼ日本の全土が戦争の第一線(最前線)となったため、攻防がどの程度あったかは別として、空襲をうけた徳島も、まぎれもない戦場でした。
その戦場の痕跡をとどめたものが現代にも残っていて、本行寺の前の錦竜水(地図⑤)から、春日神社(地図⑥)、瀧薬師(地図⑦)、日蔭山邸(地図⑧)へと進んでゆく途中で見学できました。空襲の時に破損した春日神社のいくつかの灯篭を目の前にして、山川の熱のこもった説明に、激しい空襲をかつて体験したことのある年配の方たちは、聞き入り、感慨深く見入っていました。また、戦争を知らない世代にとっては、当時の空からの攻撃がどのようなものか、石でできた灯篭の壊れた様から、イメージできたようでした。また、瀧薬師では、本殿のすぐ近くの宝篋印塔や欄干、さらには井上不鳴顕彰碑(写真)が、空襲時の火災により、ボロボロになった様をじっくりと見たり、さわったりして、今に残る徳島大空襲の被災物を確認しました。そして、旧蔭山邸は、空襲の被災を伝える物というより、蔦におおわれたその姿から、何か違ったものを連想しそうです。「前々から、ここを通るたびに、何だろうと思っていた」という方が、説明を聞いてはじめて戦災の爪痕だと知ったとの言葉にもあるように、ひじようにインパクトの強い建物です。日蔭山邸から東宗院(地図⑨)へと引き返し、空襲により寺町全体が焼失したなかで、唯一焼け残ったという山門をみました。当時は、山門に囲いをして暮らしたということで、空襲後の生活を語るものといえるかもしれません。東宗院では、この時ちょうど本堂の建て替え工事にかかっており、古い本堂のあったところを整地しているところでした。その一面に焼けた土や炭の層が見られ、焼けただれた陶画器や針金・釘・瓦等が含まれていました。山川が来年担当する企画展にも使えそうなところだけに、説明は具体的で微に入り細を穿つものとなりました。ある参加者の方が、この様子を見て「徳島大空襲の時の我が家の焼け跡を思い出しました。」と述べられましたが、まさに徳島大空襲そのものの跡でした。また、「当時の生々しい痕跡を見て感慨無量であった。」という感想がでるなど、歴史となってしまった感のある戦争が、年配の方にとっては、原色の記憶として蘇ったひとときであったのかもしれません。

おわりに -ごく普通に歩きながら-

寺町は、気軽に歩けるところです。寺社の許可がいたたければ、いつでも境内を見ることが可能なところです。そういうところに、いろいろな歴史やエピソードを発見して歩くのは、じつに楽しいことです。山川が、下見にきたとき東宗院で焼けた土を見て目を輝かせた時のような発見もあるでしょう。さらに、何人かの参加者の方が、「次に友達と来るので、とてもためになった」といわれているように、次に来るとき自分で友人を案内して歩けば、より楽しく、有意義なものとなります。ぜひ、博物館の普及行事等で、楽しみ方を学んで、実践してみて下さい。
寺町以外にも、いろいろ素晴らしいものを発見できる場が、無数といってもよいほどあるでしょう。ごく普通に歩きながら、身近な地域へ発見の旅をしてみませんか。

井上不鳴 顕彰碑

井上不鳴 顕彰碑

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