伝長者ヶ原銅鐸【館蔵品紹介】

考古担当 副館長 天羽利夫

 

伝長者ヶ原1号銅鐸

伝長者ヶ原1号銅鐸

銅鐸(どうたく)は、今から約2000年前の弥生(やよい)時代に稲作の祭りで使われた力ネです。ふたんは地中に埋めておき、祭りの時に取り出して使ったともいわれています。2年前、埋められたままの銅鐸が徳島市国府町矢野遺跡(やのいせき)から発見され、全国的な話題になりました。銅鐸は、朝鮮式小銅鐸(ちょうせんしきしょうどうたく)と呼ばれるものをもとにつくられ、吊り下げて鳴らして「聞く銅鐸」から、しだいに大型化して力ネとしての機能を失つた「見る銅鐸」へと移り変わっていったと考えられています。

全国で発見されている銅鐸の数は約450個です。徳島県内からはその約1割が発見されており、徳島県は兵庫県や滋賀県と並んで「銅鐸王国」として有名です。

ここに紹介する2個の銅鐸は、阿南市山口町北省の新居家に古くから家宝として伝わっていたものです。新居(にい)家の記録によれば、江戸時代、新居家の裏山を登りつめた長者ヶ原(ちょうじゃがはら)の山頂(標高387.7m)から出工したと書かれています。銅鐸が発見される場所は、小さな谷の奥まったところとか、低い山の斜面や平地が般的です。長者ケ原の山頂のような高所から発見される例はほとんどなく、今となっては確かめようもありませんが、新居家の前面にはゆるやかな谷が広がっており、この谷周辺が、銅鐸の出土地としてふさわしいようにも思われます。
伝長者ヶ原銅鐸が広<学界で知られるようになったのは、1971年、徳島県出島の考古学者三木文雄氏が、雑誌『ミユージアム』239号に「阿波園長者ケ原出土と伝える二個の銅鐸」と題して紹介してからです。このなかで三木氏は、伝長者ヶ原銅鐸には全面「朱(しゅ)」が塗られている全国でも珍しい銅鐸であると紹介しています。

伝長者ヶ原2号銅鐸

伝長者ヶ原2号銅鐸

当館では、蛍光X線分析装置(けいこうエックスせんぶんせきそうち)を使って二つの銅鐸を分析してみました。私たちの目で見ると2個とも赤い顔料(がんりょう)が、塗られているように見えますが、実際に赤い顔料が塗られているのは大きい方の1号銅鐸だけでした。赤い顔料は、水銀朱とベンガラの2種を混ぜ、合わせたものとわかりました。赤い顔料は銅鐸全面だけでなく、内面にも塗られています。これほど赤い顔料を塗った銅鐸は、全国に例がありません。近くには、若杉山(わかすぎやま)遺跡(阿南市水井町)という辰砂(しんしゃ)を掘り出して「朱」を精製していた遺跡があり、そのことと関係しているのではないでしょうか。

1号銅鐸の大きさは64.2cmで、重さは6.62kgです。この銅鐸は4区画の袈裟欅文(けさだすきもん)が描かれ、下段の区画には双頭渦文(そうとうかもん)と呼ぶ渦巻(うずまき)文が、飾られています。2号銅鐸の大きさは40.7cmで、重さ2.50kgです。表面が、たいぶ磨滅(まめつ)していますが、6区画の袈裟欅文が描かれています。二つの銅鐸とも、「聞く銅鐸」ではなく、「見る銅鐸」として作られたものです。
 

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