菊密陀絵食籠の箱書について【館蔵品紹介】
美術工芸担当 大橋俊雄
今回は、当館が収蔵している谷田蒔絵(たにだまきえ)の箱書(はこが)きについて紹介したいと思います。
谷田蒔絵とは、江戸時代に徳島で作られた一群の漆器(しっき)です。谷田忠兵衛が始めたといわれ、漆絵(うるしえ)と密陀絵(みつだえ)で草花などを描き、「金こがし」という独特の技法をあわせてつかいます。詳細は『博物館二ュ ス』 No.23(1996年)に書きましたので御参照ください。
図 1 菊密陀給食寵。
この食籠(じきろう)(図1)は円形、四段重ねで、つまみのある蓋をそなえます。外面は朱漆塗に菊の切枝をちらし、内面は黒漆塗に金こがしをほどこします。菊の花びらは白・ピンク・黄の密陀絵、葉は緑・褐色の漆絵と金こがしで、輪郭はすべて金蒔絵でくくります。谷田蒔絵の特徴がよく現れています。
箱は台座づくりで、蓋に反故をはって以下のように墨書しています(図2・3・4)。正背面はおなじ筆跡ですが、側面は異なります。
(正面) 「菊模様/食籠 一組」
(背面)「天保十一/庚子三月/小澤氏」
(向かつて右側面)「弘化三丙午年正月十三日 /貞月法尼為遺物来/祥當忌誌」
図2 外箱正面。
図3 同背面。
図4 同 右 側面。
すなわち、天保11年(1840)ごろに小澤氏が食籠を手に入れ、弘化3年(1846)に貞月法尼の形見として、どこかに移されたと読めます。小澤氏については不明で、貞月法尼はこの族の女性かと思われます。
谷田蒔絵の年代については、現在2つの説があります。1つは、忠兵衛が10代徳島藩主蜂須賀重喜に抱えられたとする説で、これなら18世紀後半の宝暦~安永頃になります。しかし何を根拠にしているのか分かリません。もう1つは、谷田家の『成立書』から、忠兵衛が延宝6年(1678)に抱えられたとする説です。ただしこの忠兵衛は絵師なので、漆芸に手を染めたのか明らかでありません。どちらの説も、忠兵衛の後継者はいなかったとみています。
徳島には谷田蒔絵がかなり残っていますが、作者銘や年号のはいった作品が見つからず、箱書も1例しか報告されていません(※)。そのため忠兵衛がいつ活躍したのか、後継者が本当にいなかったのかという疑問を、作品から解決するのは今のところ困難です。
ここでは取りあえず、菊密陀絵食籠が天保以前に作られたことを確認したいと思います。制作年代がこれに近いか、あるいは大きく遡るかは、こうしたデータをさらに集めてから判断するしかありません。今後も調査を続けたいと思います。
この食籠は現在くすんだ色あいになっていますが、当初は菊枝の模様が映えて鮮やかだったと想像されます。女性が谷田蒔絵を持っていたことが興味深く感じられます。
※故豊田進氏は『阿波の茶道具図録』 (1980年)で牡丹唐草密陀絵香合を紹介し、「谷田御香合 恵性院様御ゆいもつ」「氏朝ヨリ 為遺物 岩江方江送 宝暦十一巳年十一月二日」の箱書を引用している。しかしこの作品と箱は現在所在不明なので、確認できない。