博物館ニューストップページ博物館ニュース033(1998年12月1日発行)カシュウイモのはなし(033号CultureClub)

カシュウイモのはなし【CultureClub】

民俗担当 庄武憲子

はじめに

サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ、ヤマイモ、イモにはいろいろありますが、皆さん力シュウイモというイモをご存知でしょうか?このイモはヤマイモの一種で、かつては広く栽培され、食用にされていたと考えられます。今ではちょっと珍しくなったこのイモの話をしたいと思います。

図1が力シュウイモです。蔓(かずら)状の茎にハート型の葉をしていて、夏から秋に白と紫の房状の花をつけます。また秋には蔓に丸いム力ゴをつけます。地下に直径10cmほどの丸いイモをつけます。イモの表面に小さな丸い穴がいっぱいあって、そこからひげのような根がのびています。グロテスクなものですが、食べられます。この写真は、1996年秋に木頭村でもらってきたものを栽培して1997年秋に収穫したものです。

図1 力シュウイモ

図1 力シュウイモ

イモと年中行事

日本でよく食べられるイモ類のうち、サトイモ、ヤマイモは日本人と長いつきあいをしてきた芋です。稲作が伝わる以前から栽培されていた可能性もあるといわれています。このようにいわれるのには、サトイモやヤマイモが農耕暦に関係する年中行事で頻繁に使用されることがあります。

例えば、1年の始まりとされる正月の床の間に鏡餅と一緒にサトイモを飾ったり、元旦の朝の食事に、餅ではなく、サトイモやヤマイモを食べるところが日本全国にたくさんみられます。これらは餅=水田稲作の他に、イモ=畑作の農耕が重視されていたあらわれだといわれます。

また、名月を拝む8月15夜や9月13夜を、「芋名月」と呼び、イモをお供えする風習があリます。これらの日をサトイモの掘り始めだとする言い伝えもあって、名月はイモの収穫儀礼の意味があったといわれています。

カシュウイモとの出会い

私は、こういうイモを使用するいろいろな習俗に興味をもって、何年もあちらこちらの人をたずねて、イモについての聞き取りをしているのですが、8年前、高知県の檮原(ゆすはら)町で、1902年(明治35)生まれのおじいさんに会いました。そのおじいさんにイモをつかう年中行事について、いろいろ教えてもらっていたら、次のような返事がかえってきました。

「9月13夜の名月は初めて芋を食べる日といって、名月を拝んだ。このときお供えするのはクキイモ(これはサトイモの方言です)と力シュウイモだった。名月にはかならず力シュウイモを供えるものだった。力シュウイモはつくるのに添え木をたてたりして世話がやけるものだったが、供えるためにつくっていた。」

これを聞くと力シュウイモが重要なものだったことが窺えます。それまで、名月に供えるイモはサトイモと思いこんでいた上に、初めて力シュウイモというイモを聞いたので、このイモはどんなイモかとあわてて調べました。
力シュウイモは学名Dioscorea bulbifera というヤマノイモの一種で、日本には野生型の二ガ力シュウと栽培型の力シュウイモというのが存在することがわかりました。ただ、栽培型の力シュウイモについては、稀であるとの説明があリました。

四国南部のカシュウイモ栽培状況

この力シュウイモの存在について、四国南部で状況を調べてみました。図2がその結果です。これによると力シュウイモは、四国山地一帯で栽培されていて、しかも山に深く入れば入るほど、儀礼に使用される例が多くなる傾向があることがわかります。

図2四国南部の力シュウイモの利用状況

図2四国南部の力シュウイモの利用状況

 

徳島県内では那賀川に沿って聞きとりをしました。その結果、木頭村、木沢村、上那賀町で、かつて、正月の雑煮にいれていたという例が聞かれました。また、木頭村では、力シュウイモは産後の食事に使っていたものだという例もありました。しかし、現在も栽培を続けている人はおらず、以前栽培していたものが庭の隅などに偶然残っているという状況でした。川を下って相生町の朝生(あそう)という集落までは、力シュウイモを昔は栽培していたという人を確認できましたが、鷲敷町に入ると、力シュウイモについて知っている人がいなくなりました。

かつては広く利用されていたカシュウイモ

力シュウイモのかつての利用状況をみてみますと、江戸時代の書物には、仙台、上総、相州 、遠州、畿内、西州での力シュウイモの記述がみられますし(細川他編,1977:1106-1107)、「毛深いが味は親さとかしう売り」「毛深いが味はいいよとかしう売り」などという句が残されていて(渡辺,1996:178)、現在の焼きいも屋さんのような、力シュウイモの行商売りもあったようです。その他、江戸時代の料理の献立集には、力シュウイモを汁の実や味噌煮、ぬた、なますのつけあわせなどにするということがのっています(日本風俗史学会編,1996:178)。以上からすると、力シュウイモはかつては日本各地で広く栽培されていて、江戸時代には庶民の生活に密着していたイモであったと考えられます。

カシュウイモが忘れられた理由

かつて力シュウイモが日本各地で栽培され、広く利用されていたとすれば、力シュウイモは何らかの原因でどんどん忘れさられてしまったということになります。四国山地は、力シュウイモの存在の記憶を残す地域のっということになるのでしょう。どうして力シュウイモは忘れさられてしまったのでしょうか?
かつて、力シュウイモを栽培していた人に聞くと、ほかにおいしいイモがたくさんできてきたからといいます。けれど、力シュウイモを実際に食べてみると、そんなにまずくはないのです。

力シュウイモが忘れさられてしまった原因は、よくわかりません。皆さんはどう思うでしょうか。なにか思いあたることがありましたら、教えていただけたらと思います。

引用文献

細川潤次郎他編(1977)『古事類苑 植物部-』吉川弘文館
日本風俗史学会(1996)『図説江戸時代食生活事典』雄山閣
渡辺信一郎(1996)『江戸川柳飲食事典』東京堂出版

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