博物館ニューストップページ博物館ニュース034(1999年3月25日発行)吉野川は北流していたか?(034号CultureClub)

吉野川は北流していたか?【CultureClub】

地学担当 両角 芳郎

「かつて吉野川は、池田あたりから北へ、阿讃山地を横切って流れていたことがあった」という話を聞いた人も多いと思います。私も博物館の企画展「吉野川の自然」(97年)および「瀬戸内海のおいたち」(98年)の解説書の中で、「吉野川の北流」について少しふれたことがあリました。

その後、この問題に関するこれまでの研究をおさらいしている過程で、かつての吉野川に対する「古吉野川」というよび方に紛らわしい点があることが気になりました。そこで、再度この問題について整理してみたいと思います。

三豊層群に含まれる結晶片岩礫

香川県大野原町から琴南町(ことみなみちょう)にかけての阿讃山地北麓の丘陵には、三豊層群(みとよそうぐん)とよばれる鮮新世(せんしんせい)後期~更新世(こうしんせい)前期の主に礫層(れきそう)からなる地層が分布しています。これらは、江畑断層の活動によ って生じた東西性の地溝状凹地を埋めた、河川性(一部湖沼性)の堆積物です。

三豊層群の中に中央構造線以南の三波川帯(さんばがわたい)に 由来する結晶片岩(けっしょうへんがん)の礫が含まれていることは、古くから指摘され、その原因をめぐっていろいろな議論が行われてきました。主なものは、鮮新世には阿讃山地はまだそれほど隆起しておらず、四国山地から阿讃山地を横断して北流する古水系が存在し、三豊層群に結晶片岩慨を供給したという考えです(岡田、1970ほか)。それに対し、結晶片岩慨は伊予三島方面から東へ流れる河川によって運ばれたものだ、という反論もありました(阿子島須鎗、1989)。

最近、植木・満塩(1998)は三豊層群の層序や礫の組成、古流向などを詳しく調べ、阿讃山地の隆起過程を論じました。その中で、三豊層群下部の財田層(さいたそう)は、阿讃山地北麓を西流する「古財田川」の本流性礫層で、そこに含まれる結晶片岩隈は、阿讃山地を横断して北流する2つの河川(「古吉野川」および「古土器川」)によって供給された、と結論づけました。財田層およびその同時異相とされる山本層に含まれる火山灰層は、250万年および210万年という鮮新世末を示すフィッショントラック年代が得られています。いっぽう、財田層を不整合におおう扇状地(せんじようち)性の焼尾層(やけおそう)には結晶片岩礫が含まれず、その年代はおよそ120万年前以降と推定されます。こうしたことから、阿讃山地の隆起によって山地を横断して北流する水系が消滅し、東流する現在の吉野川が生まれたのは、210~ 120万年前の間であると推論しました。

北流河川の通り道

それでは、鮮新世末に阿讃山地を横断する北流河川が存在したとすれば、それはどこを通っていたのでしょうか。その河川は、更新世初期までは深い横谷(おうこく)を刻んでいたはずで、そのなごりが風隙(ふうげき)(上流部が争奪(そうだつ)されたため水流がなくなった旧河道跡)として、現在の地形にも残されているのではないかと考えられます。相栗峠(あいぐりとうげ)、猪ノ鼻峠(いのはなとうげ)あるいは薬師峠(やくしとうげ)がその候補にあげられてきました。そして、植木・満塩(1998)は、古吉野川の通り道は池田北方の猪ノ鼻峠、古土器川の通り道は三野町芝生(しぼう)北方の真鈴(ますず)峠であると考えました。
現在の吉野川では、猪ノ鼻峠へ通じる谷の出口は池田の曲がり角から東へ4~5kmずれています。これは、池田を通って東西にのびる中央構造線の右横ずれ運動によって、北流河川が消滅して以降にこれだけのずれが生じていると考えることができます。

吉野川平野の古水系

それでは、阿讃山地を横断する北流河川が存在した鮮新世末~更新世初期には、当時の“吉野川平野”の水系はどうなっていたのでしょうか。それを知る手がかりは、現在の吉野川南岸の川島町から鴨島町にかけて分布する森山層(もりやまそう)、三野町以東の阿讃山地南麓に分布する土柱層(どちゅうそう)、徳島平野地下の北島層(きたじまそう)などの地層です。
森山層は、下部にはさまれる藤井寺火山灰層が230万年という年代を示します。また、礫層には結品片岩礫のほか、和泉層群に由来する砂岩礫も含まれています。こうしたことから、すでに鮮新世末には、四国東部の中央構造線沿いに堆積盆(地溝性凹地)が生まれ、三波川帯から北流する河川だけでなく、阿讃山地から南流する河川も集めて東へ流れる水系が存在したことも確かです。阿子島・須鎗(1989)はそれを“古吉野川”とよびました。

土柱層は、阿讃山地から供給される扇状地(せんじようち)性の土石流(どせきりゅう)堆積物を主体として、吉野川の本流性堆積物をはさむ地層です。火山灰層の年代は、130~32万年にわたります。もう少し古い地層が見つかる可能性は残っていますが、いずれにしても、土柱層は阿讃山地が隆起し北流河川が消滅した時期以降の地層でしょう。北島層は森山層や土柱層の相当層だと考えられますが、年代等に関する詳しい情報はほとんど得られていません。そのため、四国東部の中央構造線沿いの堆積盆がいつ生まれたかは、はっきりしませんが、大阪湾や紀ノ川沿いに堆積盆が生まれた約300万年前ころか、それから少し遅れた時期だと考えられます。

どちらが古吉野川か?

ここまで、原典に従って、池田あたりから北へ阿讃山地を横断していた河川を「古吉野川」とよび、同じ時期に存在した吉野川平野を東流する別の河川も“古吉野川” とよんで、きました。しかし、2つの別々の川に対して古吉野川と名づけるのはまずいと、最近になって気づきました。現在の吉野川の原形は何かといえば、それは「鮮新世以降の中央構造線の活動に伴って生まれた川」であるべきなので、森山層などを堆積しながら東流していた河川こそ古吉野川とよぶのにふさわしいと思います。
そうだとすれば、阿讃山地を横断して北流していた河川は何とよんだらよいのでしょうか。この河川は、もともと鮮新世には瀬戸内方面の堆積盆に注いでいた川で、その後、財田層を堆積した古財田川によって流路を争奪され、その支流(あるいは本流)になったものです(植木・満塩、1998)。したがって、この北流河川に対しては新しい名前をつけるか、“古財田川上流部”とよんでれおくのが妥当ではないかと考えます。

図 1 吉野川平野周辺の水系の変遷(植木・ 満塩, 1998ほかに基づき作図)。

図 1 吉野川平野周辺の水系の変遷(植木・ 満塩, 1998ほかに基づき作図)。

古吉野川から吉野川へ

日本の山地では河川争奪という現象がよく見られます。隣り合う一方の河川の浸食が激しく、河床高度が低い場合、他方の流域に食い込み、その水流を奪う現象です。
土柱層が堆積しはじめたころ(約160~150万年前?) から、四国山地や阿讃山地の隆起が激しくなり、それとともに東流する古吉野川の谷頭侵食(こくとうしんしょく)が活発になったと考えられます。やがて古吉野川の上流は北流する古土器川に達して、その上流を争奪します。そして、「ついには古財田川上流部まで達して、その流路をとリこむことによって現在の吉野川が生まれた」ということになるのではないかと思います。

引用文献

岡田篤正司,1970. 吉野川流域の中央構造線断層変位地形と断層運動速度.地理学評論, 43(1):1-21.
阿子島功・須鎗和巳,1989.中央構造線吉野川地溝の形成過程.地球科学可43:428-442.
植木岳雪・満塩大洸,1998. 阿讃山地の隆起過程:鮮新~更新統三豊層群を指標にして.地質学雑誌司104:247-267.
(他にも多くの文献を参考にしていますが、ここでは省略させていただきます。)

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