博物館ニューストップページ博物館ニュース039(2000年6月25日発行)Q.蜂須賀家では、御家騒動はなかったのですか?(039号レファレンスQandA)

Q.蜂須賀家では、御家騒動(おいえそうどう)はなかったのですか?【レファレンスQ&A】

歴史担当 山川浩實

A 蜂須賀家では、江戸時代の初期に大きな御家騒動が発生しました。御家騒動は、江戸時代、大名の相続争いや家臣の権力争いなどが原因で発生した藩内の大きな騒動を言います。もちろん、徳川将軍家などにも発生しましたが、ふつう、御家騒動と言えば、大名家の大きな騒動を指します。有名なものでは、家臣間の大きな権力争いに発展した仙台藩の伊達(だて)騒動、家督(かとく)の相続をめぐる陰謀(いんぼう)事件にまで発展した金沢藩の加賀騒動などがあります。一方、大名家の中で、御家騒動と呼ばれた大きな騒動にまで発展しないままで、終わった騒動も数多く存在しました。

御家騒動の原因や性格は、時代によって大きな違いがあります。初期の御家騒動は、関ヶ原合戦以降、徳川家に属した外様(とざま)大名に多いことが特徴です。これらの大名では、戦国時代の戦(いくさ)の体制から、平和時の幕藩体制に移行する過程で発生した新・旧家臣間の対立による御家騒動があります。これは戦の世を生き抜き、幕藩体制の基礎を築き上げた軍事に秀(ひい)でた重臣と、幕藩体制のなかで新しい時代に立ち向かおうとした官僚(かんりょう)的な家臣との対立という形がみられます。中期の御家騒動は、関ケ原合戦以前から徳川家に層した譜代(ふだい)大名に多く発生しました。これらの大名では、家督相続と家臣との権力争いが複雑にからみ、家臣間の対立が表面化しました。
さて、阿波・淡路の2国を支配した有力な外様大名であった蜂須賀家では、どのような御家騒動が起こったのでしょうか?

1633年(寛永10)、徳島藩の役人によって、家老の益田(ましだ)豊後長行(7,000石)の不正が摘発(てきはつ)され、その結果、豊後は家老職と領地を没収され、投獄される事件が起きました。益田家は、蜂須賀家と姻戚関係にあり、正勝・家政に古くから仕えた重臣で、大きな権力を持った家老でした。豊後は私腹を肥やすため、自分の領地であった海部(かいふ)郡の農民に重い年貢(ねんぐ)を要求しました。そのため、100人近い農民が土佐国に逃げ込むという、きわめて大きな騒動に発展しました。そのため、豊後は責任を問われ、13年間にわたって神山の牢獄に繋(つな)がれました。しかし、豊後は自分に対する処罰を恨み、義弟を利用して、幕府に蜂須賀家の不正を訴えました。その不正とは、幕府が禁止した大船の建造、キリシタン疑惑の未調査、幕府への謀反(むほん)という、きわめて重大なものでした。この3点は、いずれも大名を統制した法律である武家諸法度(ぶけしょはっと)に大きく違反するものでした。このことが事実であれば、蜂須賀家は幕府からただちに取りつぶされる運命にありました。蜂須賀家では、例のない最大の危機を乗り切るため、若い2代藩主・忠英(ただてる)を中心に、対策が練られました。ちょうどこの時、参勤交代のため江戸にいた忠英は、国もとの家老6人に対して、細かい指示をあたえた書状が当館に所蔵されています。

事件は、結局、幕府の裁定で豊後の訴えはすべて退けられ、蜂須賀家の全面的な勝利で決着しました。この事件は、蜂須賀家との姻戚関係をバックに、権力を乱用した家老と、幕藩体制のなかで新しい時代に立ち向かおうとした官僚的な家老の長谷川越前貞恒との激しい対立が原因でした。幕府でもこの事件を大きく重視し、『徳川実紀』に裁決のようすを記録しています。この騒動は、一般に「益田豊後事件」と呼ばれていますが、蜂須賀家を代表する最大の御家騒動でした。

二代徳島藩主忠英の書状巻頭部

二代徳島藩主忠英の書状巻頭部

二代徳島藩主忠英の書状巻末部

二代徳島藩主忠英の書状巻末部
 

カテゴリー

ページトップに戻る