博物館ニューストップページ博物館ニュース129(2022年12月1日発行)銅鐸と鳥居龍蔵-二つの博物館をつなぐ-(129号情報ボックス)

銅鐸と鳥居龍蔵―二つの博物館をつなぐ―【情報ボックス】

歴史担当 長谷川賢二

文化の森には、二つの「博物館」があります。一つはいうまでもなく当館で、もう一つは鳥居龍蔵記念博物館です。両館の常設展示室は隣接しているものの、あわせてご覧になる機会はあまりないと思います。そこで、銅鐸をキーワードとして、二つの博物館をつなぐ話題を紹介しましょう。
当館常設展のうち「先史・古代の徳島」には、ズラリと銅鐸が並ぶ展示ケースがあります。銅鐸はベル形の青銅器で、弥生時代において、農耕に関するまつりに用いられたといわれています。徳島県で出土した銅鐸は、現存しないものも含めると約50点が知られており、全国でもトップクラスの数量です。

図1当館の常設展(「先史・古代の徳島」における銅鐸の展示)

図1当館の常設展(「先史・古代の徳島」における銅鐸の展示)


ところで、かつて銅鐸の起源について、中国西南部に住む苗(ミャオ)族などの「インドシナ民族」が日本列島に渡来して用いたものと考え、これらの人びとを日本人の源流の一部とする説がありました。それを唱えたのは、徳島が生んだ人類学・考古学等の先覚者(せんかくしゃ)である鳥居龍蔵(1870-1953)でした。今では、そのような考えは否定されているものの、独創性に満ちたものであったことは事実です。
鳥居は、1902(明治35)~ 03年、中国へ行き、貴州省(きしゅうしょう)、雲南省(うんなんしょう)、四川省(しせんしょう)などを巡って苗族をはじめとする少数民族の体格や生活文化について、幅広く調査しました。その際、彼らの衣服などや銅鼓(どうこ)という青銅製の打楽器、日本で出土する銅鐸には、文様の類似があるとして注目し、さらには日本人の起源に結びつけていったのです。
銅鐸と鳥居龍蔵―その関係を知ると、鳥居とは、いったいどんな人物だったのか、気になりませんか?その答えがあるのは、もちろん鳥居龍蔵記念博物館の常設展です。今度、文化の森を訪れるときには、ぜひ二つの博物館をあわせてご覧ください。

図2 鳥居龍蔵記念博物館の常設展(第1展示室)

図2 鳥居龍蔵記念博物館の常設展(第1展示室)

図3鳥居の中国西南部調査フィールドノート (徳島県立鳥居龍蔵記念博物館蔵)

図3鳥居の中国西南部調査フィールドノート (徳島県立鳥居龍蔵記念博物館蔵)

銅鐸と少数民族の銅器(銅鼓のこと)や布の文様の類似に注目した部分。

カテゴリー

ページトップに戻る