辰砂(しんしゃ)の精製【CultureClub】
考古担当 高島芳弘
神聖な色「赤」
赤い色は神聖な色として、旧石器時代、縄文(じょうもん)時代から土器や木製品の表面に塗られたり、人を墓に埋葬(まいそう)するときに上から振りかけたりして使われてきました。これらの赤色顔料(がんりょう)にはベンガラと辰砂(水銀朱)の二種類があり、鉛丹(えんたん)は奈良時代になるまで使われませんでした。
西日本では弥生(やよい)時代の終わり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳(こふん)時代初めには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになります。奈良県の大和天神山古墳の竪穴(たてあな)式石室の中には41kgの辰砂が使われていました。赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています(図1)。古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、たいへん貴重な例です。
辰砂の採掘・精製と石臼(いしうす)・石杵(いしぎね)
辰砂の採掘は縄文時代から行われていました。伊勢水銀として古くから知られている三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、縄文時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野(うれしの)町天白(てんぱく)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿、磨石(みがきいし)や朱の容器と考えられる土器が数多く出土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことがわかります。徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたようです。
弥生時代以降の辰砂の採掘では徳島県阿南市の若杉山遺跡が有名で、弥生時代終末期~古墳時代初頭の一大産地であったと思われます。
弥生・古墳時代の辰砂を精製するための石臼(いしうす)・石杵(いしぎね)は、採掘遺跡、集落跡、古墳から発見されています。辰砂採掘の遺跡は若杉山遺跡の発見まで明らかでなく、最初は古墳の副葬品(ふくそうひん)としての石臼・石杵が注目されていました。
古墳からの出土品には、福井県丹生(にゅう)郡の朝日古墳群中条(なかじょう)4号墳から出土したもの(図2)や大阪府の野中(のなか)古墳の出土品のように、きれいに整形されているものが多く見受けられますが、なかには福島県の会津大塚山古墳出土例のように自然石を利用したものもあります。県内では鶴島山10号墳の竪穴式石室から石杵2点が出土しており、加工したものと自然石を使ったものとの両方があります。
ただし、加工したもの、自然石のどちらにもすりつぶした痕跡(こんせき)しか見あたらず、古墳における石臼・石杵を使った辰砂の精製としては、埋葬に先立って、微細な粉末をさらにすりつぶす程度の儀礼(ぎれい)的な意味合いしかなかったものと思われます。
若杉山遺跡では、石臼は40点以上、石杵は300点以上出土しています。大部分の石臼には石杵によって叩(たた)かれてできたくぼみが何カ所かあり、石杵には両端に潰れた跡や小さく欠けた跡がみられます(図3)。これらのことから、若杉山遺跡では辰砂の採掘、おおまかな粉砕の作業が中心に行われており、微粉化はあまり行われていなかったのではないかとも考えられてきました。
図3 若杉山遺跡出土の石臼・石杵(当館蔵)
しかし、石杵のなかには、大きさによってばらつきはあるものの、潰(つぶ)れた跡や小さく欠けた跡とともにすりぶした痕跡を持つものがある程度あり、石臼にも丸いくぼみをもたずに磨かれた面だけをもつものもあります。すりつぶす作業は主体ではないものの、かなりの割合で行われていたものと思われます。
また、若杉山遺跡の発掘調査地点だけでなく、周辺地域でも石臼・石杵が発見されていますが、ここからもすりつぶすために使われたと思われる石杵が見つかっています。
集落跡から出土する石臼・石杵は、辰砂の採掘遺跡の石臼・石杵よりも古墳出土のものに似ており、擦(す)られた面と少し叩(たた)かれた跡があるだけです。
徳島県では板野町の黒谷川郡頭(くろだにがわこおず)遺跡、徳島市の名東(みょうどう)遺跡、矢野遺跡などで内面に朱の付着した朱容器と考えられるものといっしょに石臼・石杵が見つかっています。特に名東遺跡では、竪穴住居跡の床から、すりつぶしに使われた面に辰砂がすり込まれたように付着した石杵2点(図4)が出土しており、床から掘り込まれた土坑(どこう)からは、10cm足らずの厚みで朱と炭化物が互層(ごそう)になって発見されました。この住居跡は朱の最終的な精製を行っていたと考えられています。これら吉野川・鮎喰(あくい)川の下流域のムラでは、若杉山から運ばれてきた辰砂をさらに精製して畿内(きない)方面に運び出していたと考えられてきました。
しかし、名東遺跡出土のすりつぶしに使われた面を持つ石杵はこの2点だけであり、ここにいったん集めて畿内方面に再び運び出したと考えるには、石臼・石杵の量が少ないような気がします。板野町の黒谷川郡頭遺跡、徳島市の矢野遺跡も同様だと思われます。
これに対して辰砂の産地とは遠く離れた地域でも石臼・石杵や朱の容器が多く見つかっています。兵庫県龍野(たつの)市の養久(やく)山・前地(まえじ)遺跡から朱の付着した非常に大きな石臼が発見されています。ここの住居跡で最終的な精製を行い周りの集落に配布していたと考えられています。
辰砂の流通
弥生時代終末~古墳時代初頭の辰砂の採掘遺跡である若杉山遺跡が確認されて以降、古墳の石室で辰砂が大量使用されること、ほかに採掘遺跡が見つかっていないことから、若杉山遺跡から吉野川下流域へ辰砂をいったん集め、ここで精製して畿内へ向けて運び出されたと考えられてきました。
しかし、辰砂を産出しない龍野のような地域で、辰砂の最終的な精製が行われていたとすれば、辰砂は産地から消費地へ直接運ばれたと考えた方がよいのではないでしょうか。辰砂をすりつぶすための石臼・石杵がもっと多く出土する集落跡が出てきたときに、そこを集散地的な性格のムラと考え、若杉山遺跡における採掘形態と合わせて検討する必要があります。
古墳出土の辰砂の産地については、はっきりとはわかっていません。なかには赤い色が水銀朱なのかベンガラなのかさえわかっていない場合もあります。
現在、産地と古墳、集落跡などで採集された辰砂についてヒ素などの微量元素の分析による産地推定が行われようとしています。これによって産地が推定されたとき、どこの産地の辰砂がどの古墳あるいはどの集落に供給されたのか明らかになると思います。