館蔵品紹介 八貫渡銅鐸(はちかんわたしどうたく)【館蔵品紹介】

この銅鐸は、徳島県の南部、阿南市中大野町の現在持井(もちい)橋がかかる場所のやや下流、通称八貫渡と呼ばれる場所から出土した銅鐸です(図1)。現存するのは銅鐸の鈕(ちゅう)(吊(つ)り手)部分のみですが、その高さは約30cmあり、推定される全体の高さは、現存する県内出土の銅鐸のうち最も大きい矢野銅鐸(徳島市国府町矢野出土、高さ97.8cm、重要文化財、図2)とほぼ同じか、あるいはやや大きいくらいの100cm前後と考えられます。

図1 八貫渡銅鐸

図1 八貫渡銅鐸

銅鐸の中では最も新しい突線鈕式(とっせんちゅうしき)銅鐸と呼ばれるグループのうち、近畿(きんき)地方を中心に分布する近畿式銅鐸に分類され、弥生(やよい)時代後期(紀元2世紀ごろ)に作られたものであると考えられます。

銅鐸の本体部分にあたる身(み)は残存していませんが、矢野銅鐸などと同じように袈裟襷文(けさだすきもん)が施(ほどこ)されていたものと推定されます。また、矢野銅鐸をはじめ多くの近畿式銅鐸に見られるように、吊り手の最上部とその左右、あわせて3カ所に双頭渦文(そうとうかもん)と呼ばれる渦巻(うずま)き文様の飾耳(かざりみみ)があったようで、その痕跡(こんせき)が残っており、付け根部分には文様も確認できます。

徳島県内では多くの銅鐸が発見されていますが、比較的まとまって出土する地域は矢野銅鐸などが出土した徳島市西部の鮎喰(あくい)川流域とその周辺、八貫渡銅鐸などが出土した阿南市の那賀川流域とその周辺にあります。いずれの地域からも畿内(きない)との深いつながりをうかがわせる近畿式の銅鐸が出土していることになり、今からおよそ2000年ほど前、弥生時代の徳島と畿内との関係を考える上でも重要な資料であるといえます。

八貫渡銅鐸は、長い間個人蔵として保管されてきたために、一般に公開されることはほとんどありませんでした。写真が掲載(けいさい)された文献も極めて少なく、銅鐸研究者でもなかなか実物を見ることができなかった資料です。この資料が徳島県立博物館の館蔵品となったことで、広く一般に公開し、多くの方々に見ていただくことができるようになりました。すでに常設展示の「ムラからクニへ」のなかの「銅鐸のまつり」のコーナーに展示していますので、ぜひ一度実物をご覧ください。
なお、矢野銅鐸は、徳島県立埋蔵文化財総合センター(板野町犬伏)と徳島市立考古資料館(徳島市国府町西矢野)に複製が常時展示されています。

図2 矢野銅鐸 (徳島県立埋蔵文化財総合センター提供)

図2 矢野銅鐸 (徳島県立埋蔵文化財総合センター提供)

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