博物館ニューストップページ博物館ニュース056(2004年9月17日発行)上八万盆地の園瀬川の古流路(056号CultureClub)

上八万盆地の園瀬川の古流路【CultureClub】

地学担当 両角芳郎

園瀬川(そのせがわ)は身近な川ですが、とても“不自然な”川です。上八万盆地(こういう名称があるか知りませんが本稿ではそう呼ぶことにします)では、平地の地形的に一番低いところではなく、堤防に囲まれて眉山(びざん)寄りの小高いところを流れています。そして、寺山の北側の狭い鞍部をぬけ、平地を横切って向寺山の山沿いに至ります。

私は日ごろ園瀬川を眺めながら、この不自然さが気になり、これはかなり人の手が加わった川ではないかと感じてきましたが、昨年、園瀬川の古流路について少し調べてみようと思い立ち、文献を当たったり現地を歩いたりしてみました。その結果、園瀬川はかつては現在とは違うところを流れていたことを確信しました。このことは文献にも記述があるので歴史学・地理学関係者には周知の事実だとは思いますが、私の周りの人の認識度は低く、一般にはあまり知られていないのではないかと思います。そこで、改めて確かな記憶として留めておいていただきたいと思い、この小文を書くことにしました。

八万村史および名東郡史にみられる記述

残念ながら「上八万村史」はどこの博物館や図書館にも所蔵されておらず、調べることができませんでしたが、「八万村史」と「名東郡史」に園瀬川の旧流路に関する記述がありました。要点を以下に列記してみます。どちらも八万村内の園瀬川の付け替えについては述べていますが、上八万村内の改修には言及していません。

「八万村史」(昭和10年発行)

・昔の園瀬川は、上八万村から八万村に入り、東流して市原あたりで川筋は3つに分かれていた。そのため三條川(さんじょうがわ)(三条川)という名称も残っている。三條川の本流は現在の冷田川に当たる。
・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が命じて法華川(ほっけがわ)(法花川)を穿(うが)ち、横土手を築いて三條川の本流をこれに流すようにしたのが現在の園瀬川だと言われている。

●「名東郡史」(昭和35年発行)

・山間を流れてきた園瀬川は、西光寺(さいこうじ)付近の平地に出たあと大きく湾曲して眉山山麓に触れ、深い淵を形成した。 粟淵(あわぶち)という地名が残っている。
・そこから川は東へ2、3に分流したが、本流は中筋を通るものだった。この本流は大木の南東で南北に走る山地に突き当たって大きく湾曲(わんきょく)していた。

・寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺(こんごうこうじ)があった。寺が栄えた鎌倉時代には境内に閼伽池(まかいけ)と称する庭池があったと伝えられているが、この池は昔の園瀬川の流路の一部であったらしい。
・古老の話によると、中筋(なかすじ)近辺には最近まで所々に池沼があり、昔の河底らしい痕跡を残していた。
・その後、寺山北側の鞍部に通ずる支流が発達して、これが本流となった。
・蜂須賀家政が徳島城の造営に当たり、防備上の見地から法花川を穿ち、三條川の下流である冷田川を改修するなどの川筋の変更を行い、今の園瀬川が出現した。

絵図に描かれた園瀬川の流路

現在の園瀬川が江戸時代初期の付け替え工事によって生まれた川であるとすると、昔の絵図にそれ以前の園瀬川の流路に関する手がかりがないかと思い、博物館や文書館、図書館でいくつかの絵図を見せてもらいました。しかし、現在残っている江戸時代の絵図のほとんどは、時期的には付け替えが行われた後に描かれたものですが、山地や川筋は見取図的にラフに描かれていて、上八万盆地内での園瀬川の古流路の手がかりは見当たりませんでした。ただし、測量にもとづく精巧(せいこう)な絵図として有名な「文久3年徳島及び周辺絵図」(徳島大学附属図書館蔵)では、現在とあまり変わらない園瀬川が描かれていますが、上八万および八万地域を通して人工的に築かれた堤防の記号が描かれているのが注目されます。

上八万盆地の地形と園瀬川の古流路

「名東郡史」の園瀬川に関する記述はかなり信憑性(しんんぴょうせい)があります。上八万盆地の地形等と照らし合わせながら少し検証してみたいと思います。

●湾曲した眉山の山裾と細長い低地

佐那河内村から上八万町へ山間の渓流(けいりゅう)として流れてきた園瀬川は、西山の北東、西光寺橋のあたりで上八万盆地の平地へ出ます。そこには広い川原が形成されています。ここで注目されるのは、湾曲した眉山の山裾(やますそ)とその南に広がる細長い低地です(図1)。ふつう、山地の河川が山体の側面にぶつかって方向を変えるとき、山体を掘削して大きく湾曲した地形をつくり出します。河川は山裾寄りを流れ、内側には広い川原が形成されます。流路がショートカットされると、旧河道は三日月状の池や低地となって残ります。「名東郡史」にもあるように、園瀬川はここで大きく湾曲し、眉山寄りを流れていたと考えられます。細長い低地はかつての流路に当たり、園瀬川の付け替えで堤防が築かれた後に田圃(たんぼ)に造成されたものと考えられます。
似たような湾曲した地形は、文化の森がある向寺山の西側にも認められます。ここでも、かつての園瀬川は大きく湾曲し、現在の八万町新貝方向へ北流していたものと推察されます。

図1園瀬川の流路跡と考えられる低地(川西地区)右手の竹藪が現在の園瀬川の堤防

図1園瀬川の流路跡と考えられる低地(川西地区)右手の竹藪が現在の園瀬川の堤防

●寺山北側の鞍部に川を導く高い堤防

現在の園瀬川は、高い堤防で仕切られて盆地の北の端を通り、寺山北側の鞍部に向かいます(図2)。この辺りの園瀬川は水がよどみ、まるで“運河”といった様相を呈しているところもあります。
寺山は、眉山南麓のひとつの尾根が階段状に低くなってできた小山です。その北側が鞍部になっていたとはいえ、もともと園瀬川の本流が通るほど地溝状に低くなっていたとは考えにくいことです。おそらく園瀬川の付け替えに当たって、岩盤を掘り下げたのではないかと思われます。そう思いながら時々ここを通ってみますが、今のところ確たる掘削の証拠は見つけていません。

図2盆地の北側を通る園瀬川の堤防(下中筋地区)。寺山北側の鞍部に川を導いている。

図2盆地の北側を通る園瀬川の堤防(下中筋地区)。寺山北側の鞍部に川を導いている。

 

●盆地内にある多数の揚水ポンプ

上八万盆地には、至るところに上水道用あるい は田圃への潅漑用(かんがいよう)の揚水(ようすい)ポンプが設置されています(図3)。平地の地下にはかつての川筋に沿って堆積した礫層(れきそう)が複雑に積み重なって分布しており、そこを通る豊富な地下水脈があると考えられます。上中筋に住む友人の話では、自家用の打ち込みパイプ式の井戸をつくった際、地表から2mほどで砂利層(じゃりそう)に当たり、園瀬川の水位が高いときはパイプから地下水が自噴したとのことです。

図3規模の大きな揚水ポンプ場(大木地区) 大木団地、東山団地などで使う水道水の水源地となっている。

図3規模の大きな揚水ポンプ場(大木地区)。大木団地、東山団地などで使う水道水の水源地となっている。


園瀬川の水は、少し日照りがつづくと西光寺橋の下あたりですぐに枯れてしまします。それは、園瀬川の水がこのあたりで伏流水となり、かつての川筋に沿った礫層へ流れてしまうためだと考えられます。

以上に述べたことを総合しながら、江戸時代初期の付け替え工事以前の園瀬川の古流路を大胆な推定を交えて描いてみました(図4)。

図4:上八万盆地の地形と推定される園瀬川の古流路。揚水ポンプ場の位置は徳島市発行「2,500分の1徳島市全図」に よる。実際には小規模のものを含めるともっと多くの揚水ポンプ場がある。

図4:上八万盆地の地形と推定される園瀬川の古流路。揚水ポンプ場の位置は徳島市発行「2,500分の1徳島市全図」に
よる。実際には小規模のものを含めるともっと多くの揚水ポンプ場がある。

言うまでもなく、上八万盆地を流れる園瀬川は、ふだんは水量が少なくてもしばしば洪水を起こし、その度に砂礫(れきそう)を運び、流路を変え、その繰り返しで幅広い平地を形成してきました。図に描いた流路も常に一定だったわけではなく、ある一時期のイメージを示すものであることをお断りしておきます。

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