博物館ニューストップページ博物館ニュース071(2008年6月25日発行)城の記憶 -須木一胤と「旧徳島城図」-(071号CultureClub)

城の記憶 -須木一胤(すきかずたね)と「旧徳島城図」-【CultureClub】

美術工芸担当 大橋俊雄

徳島城は、阿波の大名蜂須賀(はちすか)家の居城です。明治時代に建物などが取り壊され、いまは石垣と堀が残っています。公園として整備され、国の史跡にも指定されています。

「旧徳島城図」1幅(図1)は、御殿(ごてん)や櫓(やぐら)が建ちならぶ往時のさまを描いた復元図です。内容が比較的正確といわれ、城の様子を視覚的にとらえた好資料とされています。

図 1 旧徳島城図須木一胤筆 (当館蔵)

図 1 旧徳島城図須木一胤筆 (当館蔵)

この図には、 1967(昭和42)年に蜂須賀家が箱書をしています。1923(大正12)年に、旧藩士が同家の襲爵(しゅうしゃく)を祝って献納(けんのう)した品で、須木一胤の作と記されています。製作のいきさつを、近年知られるようになった資料から追ってみます。

作者の須木一胤(1873~1936)は、現在の徳島県徳島市出身の日本画家です。地元で盛んだった住吉派(すみよしは)の画法を、佐香美古(さこうよしふる)から学びました。また、徳島師範(しはん)学校の教諭をつとめ、古書画の展示会や研究会をひらいたり、阿波の画壇(がだん)の変遷(へんせん)を調べたりしました。
近年、一胤の遺品が、子孫の須木成芳(しげよし)氏から当館に寄贈されました。そのなかに「旧徳島城図」を撮影(さつえい)した白黒写真が3点あります(図2・3・4)。写されている3点の図は、構図が似ているもののすべて別の品です。

図 2-1 旧徳島城図写真(当館蔵)

図 2-1 旧徳島城図写真(当館蔵)

図2-2 同上部分

図2-2 同上部分

図1の「旧徳島城図」は、 3点のどれにも当てはまりません。しかし寄贈者は、これも一胤の遺品だった事実を、はっきりと憶えておられました。徳島城の復元図は、少なくとも4点あったことになリます。

図4には、一胤自筆の解説文が写っています。彼は、献納図の下絵から写真中の図を描き、1932(昭和7)年の阿波国郷土研究会に出品したと記しています。あわせて、献納のいきさつにも触れています。

図 4 旧徳島城図・解説文写真 (当館蔵)

図 4 旧徳島城図・解説文写真 (当館蔵)

図1は、これまで完成画と考えられていました。しかし先述した通り、一胤が持っていた下絵とみなされます。画面にのこる修理の痕(あと)から、ながらく折りたたんで保管されていたことが推測されるからです。子孫の手を離れたあと、いまの表装と箱ができ、箱書が依頼されたようです。

概略は以下のとおりです。1918(大正7)年に、蜂須賀正韶(まさあき)が父の跡を継いだとき、旧藩士たちが祝意を表わすため、徳島城の旧状を髣髴(ほうふつ)とさせる鳥瞰図(ちょうかんず)を作って献納しようとしました。里見(さとみ)恵堂と朝川近修(あさかわきんしゅう)が世話をし、一胤に画の依頼がきました。しかし製作は遅々として進まず、献納の手続きのみが先行しました。

復元は、まず当時の城跡を実写し、残されていた平面図から建造物の位置をさだめ、さらに部分的な写真や見取図から総合して、細部を描きました。その間にも、疑問が続出して作業ははかどりませんでした。里見・朝川両氏の熱心な調査や、古老の親切な助言によってようやく完成に至りました。

一胤は次のように訴えています。「このような復元はすぐにはできず、資料の新発見などをまって、少しずつ完全に近づけるしかありません。どうか今後も、皆さんの援助と補正をおしまずにお願いいたします。これは私一人のためにではありません。」

ところで、献納された「旧徳島城図」はどのような図だったのでしょうか。

図2は、写真でみるかぎり、図1よりも謹直(きんちょく)に描かれたう濃彩画(のうさいが)と思われ、画中に作者のサインと印章があります。また蜂須賀家の家紋である左卍紋(まんじもん)をあしらった、見事な表装がほどこされています。この図こそ、献納された「旧徳島城図」ではないでしょうか。
 

図3は、図2にくらべると彩色が淡く、描写の密度も薄らいでいるようです。また、建物の名称を書きこむなど、城をよく知らない人にも配慮がされています。献納図にあわせて作られた別本かと思われますが、どのような事情で描かれたのか定かでありません。

図3 旧徳島城図写真(当館蔵)

図3 旧徳島城図写真(当館蔵)
 

カテゴリー

ページトップに戻る