四国遍路の成り立ちと弘法大師【CultureClub】
歴史担当 長谷川賢二
世界遺産登録に向けての取り組みが進められている四国遍路は、日本を代表する文化の一つです。
平安時代の僧・弘法大師(こうぼうだいし)(空海(くうかい)のこと。以下、大師とします)ゆかりとされる札所(ふだしょ)88 か所をめぐる巡礼(じゅんれい)ですが、大師が始めたという事実はありません。
四国遍路の源流は、平安時代末期の聖(ひじり)といわれる宗教者が行った四国の海岸沿いを巡る修行(四国辺地(へじ))にあります。鎌倉~南北朝時代には、山伏(やまぶし)の修行として四国辺路(へじ)があり、やはり海岸巡りだったようです。なお、これらは大師信仰を前提としていたのではありません。
四国辺地・辺路をもとにしながらも、大師が讃岐(さぬき)(香川県)の出身だったことから四国が聖地と見なされ、次第に大師信仰にくるまれた四国遍路ができあがってきたのでしょう。
ここで、88か所の札所巡りとして四国遍路が定着した江戸時代のガイドブック『四国編礼霊場記(しこくへんれいれいじょうき) 』(元禄2年[1689]、以下『霊場記』とします)に注目してみましょう。この本では、大師の訪ねた跡あとを行くのが四国遍路だとされています。しかし、書かれている一つ一つの札所の由来を見てみると、意外なことに、大師との直接的なかかわりが示されていないところがあります。そうした札所の数は、阿波(徳島県)4、土佐(とさ)(高知県)6、伊予(いよ)(愛媛県)12、讃岐(香川県)4 となっています。そのうちの一つである86番札所志度寺(しどじ)(香川県)は、平安時代末の12世紀にはすでに広く知られた霊場でしたが、江戸時代に至るまでは大師との関係が説かれることはありませんでした。
こうしたことから、四国遍路の札所は本来、すべてが大師に由来すると考えられていたのではなかったようです。詳しいいきさつは分かりませんが、さまざまな性格の寺社がある中で、中世末から近世初頭にかけての頃、札所が固定されるのと並行し、大師信仰が四国遍路全体をまとめるものとして位置づけられるようになったのでしょう。『霊場記』はそうした過渡的な時期の様子を物語っていると思われます。
中世の高野聖(こうやひじり)・巡礼
三十二番職人歌合(模本,当館蔵)より。
原本は 15 世紀の成立。画面の右が高野聖 , 左が巡礼です。「高野聖」は,高野山に拠点をもった宗教者で,大師信仰を広める役割を担になったと考えられています。また,「巡礼」は,四国遍路よりも早く成立した西国(さいごく)三十三所の巡礼者の姿です。
四国遍礼絵図
当館蔵。初版は宝暦13年(1763)。もっとも普及した遍路絵図です。大師像が大きく描かれており大師信仰にもとづくことがうかがえます
四国遍礼霊場記
当館蔵。志度寺の部分です。