古代の阿波や讃岐にいた佐伯氏の役割や相互関係について教えてください。【レファレンスQandA】
考古担当 高島芳弘
佐伯(さえき)氏は宮廷警護(きゅうていけいご)の職能(しょくのう)を与えられていました。中央には佐伯連(むらじ)がおり、地方では佐伯直(あたい)や佐伯造(みやつこ)に率いられた佐伯部(べ)が中央の佐伯氏を支える集団として活動していました。佐伯直や佐伯部の記述は、日本書紀を含めた六国史(りっこくし)や讃岐国・阿波国の戸籍、平城宮(へいじょうきゅう)に送られた税に付けられた荷札の木簡(もっかん)などに見られます。播磨(はりま)、 安芸(あき)、讃岐(さぬき)、阿波など瀬戸内海周辺に多く分布していたようです。では、阿波国、讃岐国の佐伯氏に関連する古代の考古資料をもとに、阿波国の佐伯氏と讃岐国の佐伯氏の関係を探ってみましょう。
奈良時代に阿波国、讃岐国から平城宮に送られた税に付けられた木簡には、「佐伯」と記されたものがあります。
阿波国
・阿波国美馬郡 「二」(異筆)・三野郷戸主佐伯直国分米[ ]
・阿波国美馬郡三野郷・戸主佐伯直国麻呂米五斗
讃岐国
・讃□(讃岐か)□□□□(郡か)[ ]郷・佐伯部稲奈知調塩
・讃岐国三野郡阿麻郷・戸主佐伯直赤猪調塩三□(斗)
・讃岐国三野郡高野郷佐伯部□□
これらの木簡から、阿波国美馬郡三野郷(現在の徳島県三好市三野町近辺)や讃岐国三野郡(香川県三豊市三野町近辺)に佐伯直や佐伯部がいたことが分かります。
では、阿波や讃岐の佐伯氏は、互いに関係があったのでしょうか?
奈良時代以前、美馬郡には、7世紀後半に郡里廃寺(こおざとはいじ)を建立した勢力があり、さらに100年ほど前の6世紀後半には、棚を持つ古墳の中で最大の段(だん)の塚穴(つかあな)を造営した勢力が存在していました。
郡里廃寺は美馬市美馬町郡里にあり、その建物の軒先を飾っていた軒丸瓦のなかに、12枚のハスの花びらが描かれているものがあります(図1)。これと同じ型からつくられたものが、香川県さぬき市の極楽廃寺、木田郡三木町上高岡、仲多度郡満濃町の弘安寺跡から出土しており、香川県全体に分布しています。
図 1 郡里廃寺の軒丸瓦
また、美馬市美馬町を中心に阿波市、つるぎ町に分布する段の塚穴型の横穴式石室は、ドーム状の天井を持ち、胴張りの玄室(げんしつ)で、ほとんどのものは奥壁に棚をもっています(図2)。香川では高松市の久本(ひさもと)古墳だけが棚を持つ古墳として有名です。棚を持つ古墳は、徳島、香川だけでなく和歌山県、九州地方などを中心として西日本全体で見られます。
図 2 段の塚穴の太鼓塚の玄室内部
これらの事例は、現在の美馬市美馬町の東部に位置した勢力と、讃岐との関係を物語ります。しかし、その勢力が木簡に見られた美馬郡三野郷の佐伯直につながっているかどうかはわかりません。さらに、阿波・讃岐両国の佐伯氏が相互に関係しているかどうかもわかりません。最近、讃岐の佐伯氏が阿波に影響を及ぼしたとか、その逆が言われることがありますが、どちらも断定することはできません。