絵師・佐々木家についての資料【情報ボックス】
美術工芸担当 大橋俊雄
江戸時代に、徳島にいた絵師(えし)の一族に佐々木家があります。17 世紀の後半から19 世紀の半ばまで、作品を残したり記録に名をとどめたりして、実に息のながい活動をしています。古くは町絵師(まちえし)や絵仏師(えぶっし)のような仕事もしましたが、やがて藩の御用を請(う)けて分限帳(ぶんげんちょう)に名前が現れ、江戸の狩野(かのう)家の門人になったことが知られています。徳島市の丈六寺にある曳馬図絵馬(ひきうまずえま)は、佐々木信之丞が元禄8年(1695)に描いています。徳島市立徳島城博物館にある養性軒十六詩画巻(ようしょうけんじゅうろくしがかん)は、佐々木信照(のぶてる)の筆で享保8年(1723)に完成しています。
佐々木家はくわしい系図が残っておらず、名前とおおよその活躍期が、断片的に分かるだけです。徳島城博物館の須藤茂樹氏は、作品と資料を詳しく調べ、以下の人たちがいたことを『史窓』27号(徳島地方史研究会 1997)で報告されています。年号は、確認されるうちの最下限です。
○信之丞:元禄8年(1695) | ○定之丞:元禄8年(1695) |
○信照:元文5年(1740) | ○作之丞:享保15年(1730) |
○玄仲寿信:享保18年(1733) | ○栄流 :享保18年(1733) |
○養郭惟照:寛政2年(1790) | ○典照:寛政2年(1790) |
○唯照:文化11年(1814) | ○晴造:文政11年(1828) |
○忠兵衛信照:天保8年(1837) | ○寿照:弘化2年(1845) |
彼らのうち、生まれた年がわかるのは玄仲寿信で、正徳4年(1714)とのことです。ほかは誰についても生没年が不明です。
ところで、明治の終わりから昭和にかけて、地元の絵画史を調べた人に 須木一胤(すきかずたね)(1873-1936)がいます。一胤は 住吉派(すみよしは)の日本画家で、徳島師範学校の先生でもありました。彼の遺品は、子孫の方から当館に寄贈されています。そのなかに佐々木家の墓碑を調査した記録があり、墓の正面図と戒名(かいみょう)・命日が書き留められています(図1)。あるいは過去帳なども見たのかも知れません。
現在では、佐々木家の墓がどこにあったのか定かでなく、記録が採られた時期や経緯もわかりません。それぞれの戒名が、先にあげた誰に当たるのかも曖昧です。しかし没年を記した唯一の資料ですので、以下にその内容をあげておきます。
佐々木家について、どなたか情報をお持ちでしたらぜひお知らせ下さい。
図1 佐々木家墓碑記録(須木一胤採録)
墓碑表 | 〈梵字〉先祖代々霊 |
墓碑裏 | 佐々木晴造/ 唯照 |
墓台石 | 寄附 下山道左衛門 |
寛政五年四月五日 | 養心自郭居士 |
正保?四年九月廿六日 | 法名義遠居士 |
明暦元年三月七日 | 貞悦春清居士 |
寛文十年二月七日 | 法悦春哲居士 |
元禄十四年十二月六日 | 雪岸貞松居士 |
享保十年五月廿六日 | 澤達由信居士 |
延享四年十月五日 | 栄海義空信照居士 |
寛政三年十一月十九日 | 峨洋院和山栄流居士 |
天保十二辛丑十月十九日 | 松雲晴山居士 |
元治元甲子年十一月廿五日 | 真性義海居士 |
慶応二年寅七月廿六日 | 性圓義通居士 |
明治二十三年六月廿二日 | 栄應妙寿大姉 |
正徳元七月二日 | 蘭月涼詠信? 士 |
元文六年四月十?日 | 柳雪了源信士 |
宝暦八十月廿八日 | 法義円信士 |
※表記の順序、「?」は原文のままです。