明治維新と徳島城―守住貫魚の『二行日誌』から―【CultureClub】
美術工芸担当大橋俊雄
幕末に徳島藩で絵師をつとめた、守住貫魚(もりずみつらな)という人がいます。彼は59歳のときに明治維新をむかえ、明治14 年(1881)に大阪に転居するまで、旧城下の東富田にいました。
貫魚は『二行日誌』1冊を残しています(図1)。この日誌は、彼が身近で見聞した事件や世相を、短冊形に切った紙片1枚ずつに書き留め、年代別に張り込んだ冊子です。短冊形は、表題を書く欄の下に、2行分の罫線(けいせん)を引いた自家製です(図2)。記事は、 明治元年から同22年まで残されています。
図1『二行日誌』表紙
図2『二行日誌』本文と短冊形(左側)
この日誌から、かつて藩主が住んでいた徳島城(現徳島中央公園・国史跡)に触れた記事を、いくつか拾ってみましょう。徳島城は、維新後10年余をかけて人々の憩(いこい)の場所に変わりました。貫魚にとっても、かつての勤めの日々を思い起こさせる所でした。
明治2年
公廨
七月旧城総政局御玄関黒門菊御幕掛銃卒御門
左右/炮持守ル鷲御門番人廃止士族借才高仕解
名札内外カケル
同年6月に徳島では版籍奉還(はんせきほうかん)があり、あらためて明治政府により藩が設置され、城の御殿が藩廨(はんかい)(藩庁)になりました。この出来事が、日誌では、旧城が総政局になったことや、大手にあたる黒門に菊紋の幕が下がり、番人でなく銃卒(じゅうそつ)が立ったことなどで表現されています。後半部は文意をはっきりつかめません。誤読もあると思いますので、原文の図版をあげておきます(図3)。
鷲御門ヨリ引舟通拔
鷲御門より引舟御門番人ヲ止諸人通行解放龍
王宮社屋損/赤金瓦銅獅子狛犬銅燈籠自造形有ヌ
スミトラレタリ
鷲門は、大手門の外側にありました。この門から曳舟(ひきふね)門までの通行が自由になりました。
途中には藩主が祀(まつ)っていた龍王宮(りゅうおうぐう)がありましたが、社殿は壊れ、赤金(あかがね)の瓦・銅の獅子狛犬(ししこまいぬ)など、金目のものは盗まれました(図3)。
図3『二行日誌』「公廨」と「鷲御門ヨリ引舟通拔」
明治3年
明治三年午六月十六日
旧諸々番処止
寺島口福島口助任口三門䑓番拂戸タテル也/
番ニ而ナケレ共旧城内能舞䑓西国名物賣拂とな
る也
城下の要所にかかる橋の番所が廃止されましたが、あわせて城内の能舞台も売り物になった事実を伝えています。この能舞台は西国名物といわれるほど見事だったそうです。旧城の能舞台がどのような施設だったのか興味深いですが、今日ではあまり資料がありません。
明治4年
明治四年春
諸局廣机勤成
軍事掛諸役共大机壱ツニ四人位面々居スニ掛
リ弁當モ此上也/地口今の御役は皆腰かけの勤ぢや
あ度々役カヘ腰ノスハラヌヲ云
これは城内での仕事場を言っています。文中「居ス」とあるのはイスすなわち腰かけです。畳の上に坐るのでなく、4人がけの大机とイスが使われ、そこで弁当も食べました。その様子は当時珍しかったらしく、さっそく皮肉られたことがわかります。
明治5年
明治五申四月晦日
旧城博覧會
松野宮司ト見物行鷲門外博覧書フラフ建ル/
鶴間松間鷺間旧小書院城山ニ珍物置付テアリ
明治時代には、欧化や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を目的として、各地で博覧会が開かれました。徳島でもこの年に旧城を会場にして催されました。会期は8月からともいわれていて、表題に四月晦日とあるのは、あるいは一般公開に先立っての見学かも知れません。御殿の各部屋や城山に、色々な珍しい物が展示されました(図4)。
図4『二行日誌』「旧城博覧會」
明治8年
明治八年六月
旧城拂下ケ
山上天守太皷櫓十八間立水始諸櫓惣而土石之外
建物/壱巻生物ニセス生物ニテハ取打大数懸ルヲ
見込大ニ利得也
松野宮司ト見物行鷲門外博覧書フラフ建ル/
当時、徳島城は陸軍省が所管していましたが、石垣や堀を残して、天守、太鼓櫓などの建物が取り壊されました。文中の「生物」は意味がよくわからず、生け花を表す「いけもの」とでも解しておきます。建物を飾りに残しておくと費用がかさむので、壊して得だったということでしょか(図5)。
図5『二行日誌』「旧城拂下ケ」
明治10年
徳島旧城遊覧地
上巳節句是迄大瀧山又汐干津田浦辺舩ニテ遊
シモ城山登夕方マテ/遊シ者天守之邊より色々
ハケ者出アハテニケルト重箱コウモリ傘ヲ覆モノヲトラ
レシ者多シト云
3月3日の節句の日などに、城下の人たちは弁当をもって海や山に出かけました。かつては眉山の大瀧山や津田浦に行きましたが、やがて旧城の城山に登るようになりました。夕方までいると、かつて天守があったあたりで化け物にあうと噂されました。
明治12年
旧城内風舩上ル
四月六日見費弐銭其形ラツキヨウツケニ、ニ
タリ/ヨウゝ二十間程上ル子供壱人ノセル、キ
ゼツシテイロナシ云
見料をとって気球が上げられました。形は漬け物のラッキョウのようでした。子供が1人乗りましたが、上空がよほど怖かったのか、かわいそうに気絶してしまいました。