博物館ニューストップページ博物館ニュース086(2012年3月25日発行)大名の格付ランキング(086号情報ボックス)

大名の格付ランキング【情報ボックス】

歴史担当 松永友和

江戸時代の大名には、さまざまな格式(かくしき)や分類(ランキング)がありました。

大名の格式には、まず徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ)との関係の深さによって分けるものがあります。教科書でもおなじみの親藩(しんぱん)(徳川氏一族、御三家(ごさんけ)など)、譜代大名(ふだいだいみょう)(関せきヶが原(はら)の戦(たたか)い以前から従っていた者)、外様大名(とざまだいみょう)(関ヶ原の戦い以後に従った者)の3つです。

この分類は、単に徳川将軍家との距離を示すのではなく、幕府の役職に就任できるか否かのちがいもありました。言いかえると、国家の重要ポストに就けるか否かです。譜代大名は幕府の役職に就任できますが、外様大名は就任できませんでした。なお、親藩は幕府の役職には就任できませんが、徳川将軍家に跡継(あとつぎ)がいない場合は、御三家の中から将軍の後継者(こうけいしゃ)が選ばれました。紀伊(きい)徳川家出身で、のちに8代将軍となった徳川吉宗(よしむね)はその一人です。

この他にも、律令制(りつりょうせい)の位階(いかい)と官職(かんしょく)による格式、江戸城登城の際の詰所(つめしょ)(控えの部屋)によるちがい、領地(石高)の大小や城郭(じょうかく)の有無、一国以上を領有したか否かなど、様ざまな格式や分類がありました。

では、徳島藩蜂須賀家(とくしまはんはちすかけ)は、どのランクに位置していたのでしょうか?

まず、徳川将軍家との関係についていえば、蜂須賀家は外様大名ですが、徳川将軍家とは近い関係にありました。具体的には、初代藩主蜂須賀至鎮(よししげ)は徳川家康(いえやす)の養女氏姫(うじひめ)(のち敬台院(きょうだいいん))を妻とし、さらに大阪冬(おおさかふゆ)の陣(じん)では大坂方を攻(せ)め、いくさでの功こう績せきが著しかったことにより、徳川家から松平の姓(せい)を与えられました。また、13代藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)は11代将軍徳川家斉(いえなり)の22男で、徳川家から養子として蜂須賀家を継いだ人物でした。

次に、石高の大小について見てみます。表は大名の数と分類を示したものです。徳島藩蜂須賀家は、阿波(あわ)・淡路(あわじ)の2ヵ国を領地に持つ25万7000石の大名ですので、表では20万石以上の大名になります。全266の大名家のうち、20 万石以上の大名はわずかに22家(8%)でした。また、「列藩現石録(れっぱんげんこくろく)」という史料によれば、15万石以上の「大藩」に分類されています(図)。このように、藩の規模(石高)を基準にした場合、蜂須賀家は上位に位置していました。
一言で大名といっても様ざまな格式や分類があり、それらは大名家の特徴(とくちょう)や個性につながっていったのです。

図 「列藩現石録」(徳島県立博物館蔵)

図 「列藩現石録」(徳島県立博物館蔵)

 

大名の数と分類
  親藩 譜代 外様  
50万石以上 2 0 5 7 2.5%
20万石以上

4

2 9 15 5.5%
10万石以上 8 16 8 32 12.0%
5万石以上 1 33 12 46 17.5%
5万石未満 8 94 61 166

62.5%

23 145 98 266 100%

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