答礼(とうれい)人形「ミス徳島」と米国ノースウエスト芸術文化博物館【CultureClub】
-徳島平和ミュージアムプロジェクト余録-
歴史担当 長谷川賢二
答礼人形「ミス徳島」
2010年度、当館を中心として行った「徳島平和ミュージアムプロジェクト」において、アメり力合衆国ワシントン州スポケーン市にあるノースウエス卜芸術文化博物館(Northwest Museum of Arts & Culture、以下では公式の略称(りゃくしょう)であるMACと表記)が所蔵する人形「ミス徳島」が里帰りしました。そして、県内4か所で、の展示によって 1万人以上もの人々にご覧いただきました。
ところで、「ミス徳島」の由来は、1927年にさかのぼります。当時、悪化しつつあった日米関係を憂慮(ゆうりょ)した宣教師シド二一・ルイス・ギューリックと実業家渋沢栄ー(しぶさわえいいち)を中心として、両国間で友情の人形交流が行われました。ます、米国市民の善意によって集められた「青い目の人形」約12,000体が、ひな祭りにあわせて日本に贈(おく)られました。それに対するお礼として、各府県等の代表58体の答礼人形と道具類が、クリスマスに間に合うよう米国に送り出されました。「ミス徳島」は、このときの人形なのです。
文書が語る収蔵の経緯(けいい)
素朴(そぼく)な疑問があります。どうして「ミス徳島」 はMACに収蔵されたのでしょうか。
この答えは、MACに保管されている文書の中にありました。「ミス徳島」の返納時に大原賢二館長(当時)が訪問した際、収蔵経緯にかかわる書簡( 1928~ 1930年)などのコピーが提供されました。これらから分かる当時の状況を紹介しましょう。
なお、博物館の名称は、設立された1917年以来、数回の変更を経ていますが、ここでは便宜(べんぎ)上、通時的(つうじてき)にMACと表記します。
発端(ほったん)は1928年7月のことです。ギューリックが事務局長を務め、人形交流の推進主体となった世界児童親善会は、答礼人形を各州に配布するため、受け入れ希望を募(つの)っていました。しかし、ワシントン州からは希望がないので、MACに対し受け入れを打診(だしん)しました。親善会は、子ども博物館等での常設展示を望んでいました。
これに対し、MACから受け入れの意向を返答し、もともと子ども博物館として設立され、1928年現在も子ども部門を擁(よう)していることなどを伝えました。
MACから提供された資料
当館で展示された 「ミス徳島」(右)。左は、徳島県で唯一現存している 「青い自の人形Jアリス(神山町神領小学校所蔵)。
MACの中心施設。先住民等の文化、地域史、美術を主たるテーマとし、展示や教育活動などを展開している。大原賢二氏撮影。
10月、MACに答礼人形1体が配布されることに決まったという連絡がありました。人形はロサンゼルスに集められており、そこから発送されるということでした。ただし、1927年の米国到着以来、人形は数体ずつ組み合わせて各地で巡回展示されたため、整理がついていない状態でした。また、付属する道具類の大半はニューヨークの倉庫にありました。
ロサンゼルスの担当者が辞職するなどの混乱 があったため、1929年1月22日、ようやく人形発送の連絡がMACに送られました。このときに初めて「ミス徳島」の名が伝えられたのです。「ミス徳島Jが選ばれたのは、特別な理由によるものではなかったようです。そして、1月29日、「ミス徳島」はMACに到着し、遅れて道具類も届きました。
偶然が結んだ縁
「ミス徳島」がMACに収蔵されたのは、偶然の結果といえます。また、人形の取り違えがあったため、MACにある「ミス徳島」は、本来は「ミス岐阜」であった人形とみられています。発送までの混乱から、それも仕方なかったのだろうと思います。この人形が徳島県ゆかりのものとして受け入れられ、80余年後の今も大切に守られていることに意義があるでしょう。