徳島藩の改革とその評価【CultureClub】
―改革は失敗?それとも成功?―
歴史担当 松永友和
江戸時代には多くの藩で、藩政(はんせい)改革が行われました。中学社会の教科書にも、中期藩政改革として、米沢藩(よねざわはん)や熊本藩(くまもとはん)の事例が紹介されています。もちろん、ここ徳島においても改革はくり返し行われましたが、教科書に掲載(けいさい)されていないこともあり、一般的(いっぱんてき)に広く知られているとは言えません。さらに、その改革が失敗したのか、それとも成功したのかについても、論者によって評価は2つに割れています。以下では、徳島藩の改革の概要(がいよう)とその評価について紹介(しょうかい)したいと思います。
1.徳島藩の改革
そもそも、江戸時代の藩政改革とは、財政危機の克服(こくふく)、支配体制の強化等を目指し、藩が実施(じっし)した改革のことを言います。具体的には、農村復興、藩専売制(はんせんばいせい)、藩校(はんこう)の設立等が行われました。
徳島藩の改革について、ここで詳細(しょうさい)に述べることはできませんが、要点をかいつまんで言うと以下の通りです。9代藩主蜂須賀至央(はんしゅはちすかよしひさ)が在職60日で没すると、秋田新田藩佐竹義道(あきたしんでんはんさたけよしみち)の4男義居(よしやす)が10代藩主に迎(むか)えられます。のちの蜂須賀重喜(しげよし)です。江戸から徳島に来た重喜は、早速改革に着手します。その主眼は、「新法(しんぽう)」の実施(人材の登用)と、藍(あい)を中心とした領内経済の建て直し等です。しかし、重喜は改革の最中、幕府(ばくふ)から謹慎処分(きんしんしょぶん)を命じられてしまいます。
その後、家老(かろう)による政治主導を経て、11代藩主蜂須賀治昭(はるあき)が父重喜の改革路線を継承(けいしょう)し、藍の流通政策の促進(そくしん)(株仲間(かぶなかま)の公認)や藍以外の国産品の奨励(しょうれい)、藩学問所の開設、地誌(ちし)の編纂(へんさん)、農政機構の再編等を実施しました。
2.改革に対する評価
徳島藩の改革については、以下のような評価がなされています。例えば、賀川(1992)では、「徳島藩は1767年に幕府から仕法(しほう)の中止を命じられ、蜂須賀重喜(はちすかしげよし)は謹慎処分とされて、嫡子治昭(ちゃくしはるあき)に藩主の位を譲(ゆず)ることを命じられた。幕府の流通支配に対抗(たいこう)して藩専売制を強化し、藩財政を自立させようとした重喜の改革は、幕府によって挫折(ざせつ)を余儀(よぎ)なくされた」とあります。つまり、重喜による改革は、より強力な幕府権力によって挫折させられた(失敗)と説明されています。
一方、徳島藩の改革は成功したと述べるのが新修大阪市史編纂委員会編(1990)です。「徳島藩は明和(めいわ)の藩政改革の挫折にもめげず、重喜の跡(あと)を襲(おそ)った藩主治昭の下で再び藍業(あいぎょう)の改革に取り組み、成功を収めたのである。(中略)徳島藩は19世紀になると江戸・大坂をはじめ全国各地に対する市場独占(どくせん)・販売独占を計画し、実現に移した。(中略)徳島藩によるこうした活発な藍の販売活動は、大坂問屋に大きな打撃(だげき)を与えた」と説かれています。つまり、改革は一度挫折するものの、その後実施された藍の流通政策等は達成された(成功)と捉(とら)えられています。
図 2 阿波名所図会(藍玉) 文化8 年(1811) 徳島県立博物館蔵
阿波国の主力産業は藍であり、藍をめぐる流通政策は、徳島藩の改革の成否を左右した。
3.評価の基準
このように、徳島藩の改革は、江戸時代における改革の失敗例として説明されたり、成功例として説明されたりするのです。藩政改革という1つの歴史的事実でも、見方によってここまで評価が分かれるとは、正直驚(おどろ)かされます。その要因には、評価の基準が異なっていることが考えられます。「失敗」とする主張は、改革を宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)期の約20年間にしぼり捉えているのに対し、「成功」とする主張は、18世紀後半から19世紀前半の約100年間を視野に入れています。期間だけではなく、藩主の謹慎処分(政治的事象)や大坂商人に対する藍の流通政策の主導権争い(経済的事象)等、改革の本質的な部分における評価基準も異なります。
さらに、近年では、成功か失敗かの二者択一(にしゃたくいつ)以外の評価や、今までにない新たな論点の提示も行われています(平川、2008)。改革を結果から考えるのではなく、政策実施プロセスに重点をおいたもの(世論の形成過程)や、民衆知(みんしゅうち)と幕藩権力(ばくはんけんりょく)との関係やあり方(献策(けんさく)と地域リーダー)を議論する、興味深い論点が紹介されています。
今回は、徳島藩の改革の概要と評価について紹介しました。明治時代になると徳島は、江戸時代に貯えた富(経済力)を背景に、さらなる発展を遂(と)げます。その意味で、徳島藩は改革に成功した数少ない「雄藩(ゆうはん)」の1つと言えるかも知れません。ただし、全ての領りょう民みんにとって改革が「成功」だったかは別問題であり、さらなる検討が求められています。
〈参考文献〉
賀川隆行『集英社版 日本の歴史14 崩れゆく鎖国』(集英社、1992 年)32・33 頁
新修大阪市史編纂委員会編『新修大阪市史4 』(大阪市、1990 年)632~636 頁、阿部武司氏執筆分
平川新『全集 日本の歴史12 開国への道』(小学館、2008 年)203 ~ 207 頁