阿波藍商 手塚家資料【館蔵品紹介】
歴史担当 松永友和
当館には、「手塚家資料(てづかけしりょう)」と呼ばれる阿波藍商(あわあいしょう)に関する資料が収蔵されています。その資料目録が、『徳島県博物館所蔵資料目録第17号 手塚家資料目録』(徳島県博物館編集・発行、1987年)として刊行されていますが、今から30年近く前のものであり、近年は手に取られる機会は少なくなっていると思います。また最近、信州(しんしゅう)(現長野県)上田藩領内(うえだはんりょうない)における藍の流通に関する論文が発表され、手塚家について触れられています(矢嶋千代子「幕末期「藍玉通帳」にみる上田地域の藍玉流通(上)・(下)」、『信濃』799・800号、2016年)。その論文によれば、上田に残された資料によって、阿波の手塚家から上田の手塚家へと阿波藍が移出されていたことがわかります。そのため、この機会に、「手塚家資料」について紹介したいと思います。
まず、家の概要ですが、手塚家は名東郡国府村大字中村(みょうどうぐんこくふむらおおあざなかむら)(現徳島市国府町中(こくふちょうなか))を拠点に、江戸鉄砲洲船松町(てっぽうずふなまつちょう)一丁目に支店をもち、関東一円に藍玉(あいだま)や蒅(すくも)を販売した藍商です。『資料目録』の解題には、「関東売場株の阿波藍商の中では、販売基盤を強固に築いた阿波藍の豪商に近い存在」とあり、有力な藍商の一人であったことがわかります。
次に、資料について述べます。「手塚家資料」は合計1015点あり、近世・近代文書(951点)、藍商具(あいしょうぐ) (42点)、藍資料(22点)の3つに分けることができます。資料の大半を占める古文書は、手塚家から藍玉を仕入れている紺屋(こんや)の借用証文(しゃくようしょうもん)(図1)が多数を占めており、年代は寛政(かんせい)~明治(めいじ)期のものです。その他にも「藍売帳(あいうりちょう)」(図2)や「藍玉原価帳(あいだまげんかちょう)」(図3)などもあり、阿波藍の流通の一端(いったん)をうかがわせる資料です。古文書以外では、証文箪笥(しょうもんだんす)や手板挿(ていたさし)などがあります。それらの一部は、常設展示「藍と阿波商人」のコーナーで紹介していますので、ご覧いただけたらと思います。
図1 借用申金子証文之事 文化10年(1813)
下野国(現栃木県)足利下町の柳右衛門(勘六と丈助は保証人)が、江ノ嶋屋利助(手塚家)から金300両を借用したときの証文。文中に「藍玉代金勘定不足ニ罷成候」とあり、借用の理由は藍玉代金の支払い不足によるものと考えられます。
図 2 藍 売 帳 天 保12年(1841)~慶応2年(1866)
藍を販売したときの帳簿で、取引先の名前や販売年、量、金額などが記されています。表紙(左図)には「丙寅慶応二歳正月吉日 藍売帳」、裏表紙(右図)には「江戸鉄炮洲船松町江之嶋屋利助」とあります。手塚家のように、手広く経営を展開させた藍商は、本姓の他に江戸や大坂などで使用する名前を持っていました。
図3 藍玉原価帳 明治25年(1892)
藍玉の原価を記した帳簿。品種や価格などが記され、手塚家の屋号「余 」もみえます。帳簿からは、当時、多様な品種があったことがわかります。