徳島藩と大井川 ― 徳島藩家老が寄進した石碑探訪 ―【CultureClub】
歴史担当 松永友和
図1は、「東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)」に描えがかれた大井川(おおいがわ)の挿絵(さしえ)です。挿絵には、川越(かわごえ)をする人や馬が描かれ、左上には富士山(ふじさん)も見えます。江戸時代、大井川には橋が架(か)けられることはなく、参勤交代(さんきんこうたい)で江戸に向かう大名や旅する庶民(しょみん)にとって、大井川は交通の難所(なんしょ)の一つでした。徳島(とくしま)県を流れる吉野川(よしのがわ)(長さ194km)と同様、しばしば洪水・氾濫(はんらん)を引き起こし、大井川の治水(ちすい)は江戸幕府(ばくふ)にとって重要な課題でした。現在、あまり知られていませんが、その治水事業に徳島藩(はん)が関わっていました。
図1「東海道名所図会」に描かれた大井川 寛政9年(1797)刊、当館蔵)
以下では、徳島藩と大井川との関わりや徳島藩ゆかりの石碑(せきひ)について紹介(しょうかい)したいと思います。
1.徳島藩による大井川御手伝普請(おてつだいぶしん)
南アルプス(標高3,189mの間ノ岳(あいのだけ))に水源(すいげん)をもつ大井川(長さ168km)は、駿河国(するがのくに)と遠江国(とおとうみのくに)(ともに現在の静岡県)の国境を南下し、駿河湾(わん)に注(そそ)ぎ込む大河です。
享保(きょうほう)21年(1736)1月12日、徳島藩7代藩主蜂須賀宗英(はちすかむねてる)と陸奥国盛岡(むつのくにもりおか)藩7代藩主南部利視(なんぶとしみ)は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の命として、老中松平乗邑(ろうじゅうまつだいらのりさと)から大井川御手伝普請(堤防(ていぼう)などの改修工事)を命じられます(『徳島県史料第1巻 阿淡年表秘録』383頁)。徳島藩は図らずも盛岡藩と共同で普請(改修工事)を行うことになりますが、その背景には、幕府が命じていた駿河国田中(たなか)藩と遠江国掛川(かけがわ)藩による堤防の再築が改修と破損をくり返し、治水の効果があがらない状況(じょうきょう)があったようです。
徳島藩では総奉行(そうぶぎょう)に徳島藩家老で稲田(いなだ)家7代当主の稲田九郎兵植政(くろべえたねまさ)(2月5日~3月5日)、次いで家老で山田家6代当主の山田貢宗賀(みつぎむねよし)(なお、蜂須賀重喜(しげよし)の藩政改革に反対し切腹を命じられたのは、7代当主の山田織部真胤(おりべまさたね)です)(3月5日~4月8日)を任命し、現地に赴(おもむ)かせて普請の差配にあたらせます。実際の普請では、江戸幕府の勘定奉行所御普請方(かんじょうぶぎょうしょごふしんかた)が作成した仕様書に基づき、徳島藩と盛岡藩が施工(せこう)しました。徳島藩が堤の普請を担当した区域(くいき)は、河口から約10㎞までの下流側で、盛岡藩はその上流側の約10㎞を担当しました。さらに徳島藩は、弁天山(べんてんやま)付近を「〆切(しめきる)」という難工事も行ったようです。
普請にともなう費用は、幕府の見積りでは4,864両でしたが、実際には見積額を大きく上回ったとされます。いずれにせよ、多額の工事費を捻出(ねんしゅつ)するために徳島藩が行った政策(せいさく)は「半知(はんち)」、すなわち藩士の俸禄(ほうろく)の半分を召(め)し上げるという厳(きび)しいものでした。享保21年4月8日(4月28日に元文(げんぶん)に改元)、徳島藩は江戸幕府から命じられた大井川御手伝普請を無事行い、9日に幕府役人の見分を受け、事業は完了(かんりょう)しました。
徳島藩にとって、大井川御手伝普請は過重な負担になりましたが、そこから得た治水技術や施工のノウハウは、宝暦(ほうれき)2年(1752)に着工された第十堰(だいじゅうぜき)の建設工事に寄与(きよ)したと推察されています(澤田健吉「徳島藩の大井川御手伝普請―吉野川の第十堰普請とのかかわり―」、『徳島科学史雑誌』5、1986年)。
2.徳島藩家老が寄進した手水鉢(ちょうずばち)
大井川に架かる谷口橋の南詰(づめ)から西へ約300m進むと、小高い弁天山があり、山上に弁天社(水神社)があります(図2)。その弁天社に通じる石段(いしだん)の登り口に、石製の手水鉢があります。(図3、4、5)。表面の一部が剥落(はくらく)していますが、現在も失われることなく、大切に伝えられています。手水鉢には、「稲田九郎兵衛 山田貢 喜捨」、「元文元丙辰年五月十□□(九日) 」とあります。すなわち、手水鉢は、現地で普請を担当した稲田・山田の両家老が、工事の完成を記念して弁天社に寄進したものだったのです。
図2 弁天社(水神社、静岡県島田市阪本、写真はすべて筆者撮影。2018年6月)
図3 弁天社へ通じる石段の登り口に手水鉢がある。
図4 手水鉢の側面に、「稲田九郎兵衛 山田貢 喜捨」(写真上)、「元文元丙辰年五月十□
( 九 日 )□」(写真下、一部剥落)と刻まれている。
図5 徳島藩家老稲田九郎兵衛と山田貢が寄進した手水鉢。現在、地元の有志によって解説看板が建てられている。
今回は、徳島藩による大井川御手伝普請と徳島藩家老が寄進した手水鉢について紹介しました。実は、この手水鉢については、山川浩實(元当館学芸員)が、「文化財亡佚の危機」(『徳島県博物館館報』№23、1975年)で紹介しています。若き日の山川学芸員が現地で手水鉢を確認してから45年を経た現在、今なおその手水鉢は遺(のこ)し伝えられ、大井川の治水事業に徳島藩が関わった歴史的事実を雄弁(ゆうべん)に物語っています。これからも大切に後世へと伝えられることを願っています。