石碑から歴史を見る【CultureClub】

歴史担当 坂東 泰

史料は身近にあるもの

歴史学は、過去のできごとについて調べ、考える研究分野です。そして過去のできごとを調べるには、それに関する史料が必要です。 史料と聞くと、みなさんはなにを想像されるでしょうか。たとえば当館の常設展示には、江戸時代に書かれた古文書があります。古文書の多くはいわゆるくずし字で書かれており、くずし字の読み方を知らなければ、なにが書かれているのか分かりません。そのため、史料というと、近よりにくいものと感じられるかもしれません。 しかし史料は案外身近なところにあります。たとえば、通学している方は、学校でいろいろな通知文を受け取っています。それらの通知文は、あと数十年も経てば、配られた当時の学校に関する史料になります。それらの通知文をみることで、学校でどのようなことが行われていたかが分かるのです。社会人として生活している方であれば、「学校」を「勤め先」に置きかえればイメージしやすくなるでしょう。 さらに史料は、紙に書かれた文書だけではありません。調べる手がかりになる遺物、遺跡、伝承、録音、映像などもふくみます。じつは、私たちのまわりには史料があふれているのです。

 史料としての石碑―西部公園にある「忠霊顕彰記念碑(ちゅうれいけんしょうきねんひ」を例に

さまざまな史料の一例として、石に文章を刻んだ石碑をとりあげてみます。

石碑は何らかのことを記念して建てられる場合が多く、多数の人が集まる公園や交通量の多い場所などでしばしば見かける身近な存在です。石碑に刻まれた碑文を読むと、それが建てられるもととなったできごとや、そのできごとが起きた時代の状況を知ることができます。 ここでは徳島市内の眉山中腹に位置する、西部公園に建っている「忠霊顕彰記念碑」(図1)を紹介します。西部公園がある場所には、もともと陸軍の戦没者の墓地(陸軍墓地)がありました。その陸軍墓地に関する史料が、「忠霊顕彰記念碑」なのです。

図1 西部公園内にある「忠霊顕彰記念碑」

この石碑は戦時中の昭和17年(1942)8月8日に、徳島県忠霊顕彰会という団体によって建てられました。碑文には、おおよそ次のようなことが記されています。 図1 西部公園内にある「忠霊顕彰記念碑」 昭和14年5月、日本陸軍の徳島連隊区司令官は、徳島市庄町にあった陸軍墓地を整備・拡張して、戦没者の霊を迎えるのにふさわしいものに改める宣言書を出し、県民に奮起(ふんき)をうながしました。

こうした動きをうけて、8月1日に徳島県忠霊顕彰会が結成され、当時の徳島県知事が会長となりました。そして12月13日には、地鎮祭を経て工事が始まり、昭和17年8月におおむね工事が完了したとされています。また、墓地の改修工事と並行して、墓地の緑化運動や、映画による忠霊顕彰の宣伝なども行われていたようです。 以上に紹介した碑文の内容から、戦時中の徳島において、陸軍墓地を整備・拡張することで、国民の戦意を高めようとする動きがあったことが分かります。

なお、徳島県忠霊顕彰会は昭和17年10月に、工事の完了を記念する絵はがきを発行しました。その絵はがきの写真から、完成して間もないころの陸軍墓地の様子がうかがえます(図2)。写真の左側に見える白い塔は、戦没者の霊を顕彰するために建てられたもので、「忠霊塔(ちゅうれいとう)」といいます。この「忠霊塔」は今も西部公園に残っています(図3)。

図2絵はがきに写っている陸軍墓地の全景

図2絵はがきに写っている陸軍墓地の全景

図3 西部公園に残る「忠霊塔

図3 西部公園に残る「忠霊塔」

 

 

ただし絵はがきでは、「忠霊顕彰記念碑」に当たるものが確認できません。石碑が建てられる前に写真が撮られたのか、それとも樹木の影に隠れているのか、詳しいことは不明です。 今回紹介した「忠霊顕彰記念碑」は、戦時中の徳島に関する歴史を伝えるものでしたが、ほかの石碑からもいろいろな歴史が見えてくるはずです。

街中で石碑を発見したら、ぜひ一度立ち止まって、その内容を読んでみてください。 図2絵はがきに写っている陸軍墓地の全景 図3 西部公園に残る「忠霊塔

カテゴリー

ページトップに戻る