随想録 2003〜2004
― 徳島新聞「阿波圏」コーナーから ―
 

 毎週土曜日の徳島新聞朝刊文化欄には、「阿波圏」というコーナーが設けられており、4人の執筆者が交代で寄稿しています。2003年1月〜2004年3月の間、このコーナーへの執筆の機会をいただきました。400字詰め原稿用紙にして2枚ほどの短いコラムですが、合計16回にわたる執筆は、予想以上に大変でした。博物館や歴史研究の話題などを知っていただく機会となればと思い、何とか書き続けることができました。ここに全文を掲載し、記録とします。

縦書きの原文を横書きで表示するため、漢数字はアラビア数字に置き換えました。また、掲載時の「今月」といった表記は具体的な月名などに改めました。若干の注釈を加えた場合もあります。

 
 

 

不思議のハコ

2003.1.11掲載

鳥居龍蔵と郷土史

2003.2.8掲載

遍路の季節

2003.3.8掲載

連携する学芸員

2003.4.5掲載

合戦図とイラク戦争

2003.5.3掲載

牟岐大島を歩く

2003.5.31掲載

“鬼”の正体

2003.6.28掲載

田んぼのにおい

2003.7.26掲載

観心十界図に思う

2003.8.23掲載

博物館と人権

2003.9.20掲載

地名

2003.10.18掲載

模索する博物館

2003.11.15掲載

ふるさと

2003.12.13掲載

ゴジラ

2004.1.10掲載

厄年

2004.2.7掲載

コレクション

2004.3.6掲載

 

 

不思議のハコ

 わが家の3歳の息子は、ある幼児向け歌番組がお気に入りだ。その中で「はてなボックス」という箱が登場するコーナーがある。歌を聴いて箱の中身を当ててみようというものだ。
 ところで、博物館など公共文化施設もハコモノと呼ばれることがある。この言葉は否定的に用いられることが多いが、それは展示など目に見える部分を除くと、中で何をしているのか、あまり知られていないからではないかと思う。
 研修などに来館された方を収蔵庫に案内すると、たいていの人が目を丸くする。整理途上の雑然とした様子にあきれて、ということもあるが、博物館の内部で絶えず調査・収集・整理が続けられていて、展示室に並んでいる資料が氷山の一角に過ぎないことを知るからだ。
 そう、展示室に並ぶ資料が博物館のすべてではないということだ。資料は少しずつ入れ替わっていくし、企画展などで初公開される資料もある。その意味で、博物館は絶えず「新鮮」であろうとしているハコといえるだろう。
 県立博物館では1月21日から3月2日まで、特別陳列「楠コレクションの美術・歴史資料」を開催する。鳴門市出身で奈良に住んでいた実業家・楠育治さんの没後、ご遺族から寄贈された約3,000点の美術品などの一部を初公開するものだ。そのなかには、祖谷の景勝を描いた「祖谷山絵巻」や「全国名勝絵巻」などの県指定文化財もある。これも「氷山の一角」が姿を現す機会の一つといえる。
 ついでにいうと、新鮮さは展示だけではない。講座やインターネットなどを通じて、常に新しい情報を発信しているのである。
 鮮度を保ち続けることによって、好奇心をかきたてる不思議のハコになること。それが博物館の一つの役割でもあると思う。

鳥居龍蔵と郷土史

 今年は徳島市出身の人類学者・鳥居龍蔵(1870〜1953年)の没後50年に当たる。
 鳥居龍蔵は、アジアを縦横にめぐったフィールドワーカーだった。旧満州、モンゴルから朝鮮半島、台湾まで踏査した行動範囲の広さ、自然人類学・文化人類学・考古学をカバーした学際的研究、他に先駆けて乾板写真を記録に活用するなど、今なお評価は高い。
 故郷・徳島の歴史研究にもかかわっていて、彼に師事した郷土史家たちがさまざまな方面で活躍した。鳥居の口述による「川内村史」を編集した者、鳥居が調査した城山貝塚(徳島中央公園)の資料を展示する考古博物館の建設を構想した者などである。
 2月16日、県文化の森で開かれる徳島地方史研究会・第26回公開研究大会のテーマは、よみがえれ阿波の歴史家PARTI「没後50年、今、鳥居龍蔵を考える」。県内外の研究者4人の講演とパネルディスカッションが行われる。
 この大会には二つの意義がある。一つは没後50年の節目に、故郷で鳥居の業績が多角的に検討されること。その研究成果に、新たな光が当てられる期待がある。もう一つは「よみがえれ阿波の歴史家」とあるように、郷土の歴史家、特に戦前の郷土史家の仕事を再評価しようとする姿勢が見られることである。
 私が重視したいのは、後者の方だ。戦後の歴史学界は、戦前の郷土史研究を“お国自慢”などと否定的に評価してきた。だが、それでよかったのだろうか。
 3年前、香川県の神社が所蔵する阿波関係の中世史料を調べたことがある。徳島では未知の史料のはずだったが、先日、県立博物館が所蔵している浪花勇次郎という郷土史家の遺品を見て驚いた。戦前、彼のもとに届いた書簡の中に、その史料の内容が書かれていたのである。
 彼らの知識や情報は侮れない。戦後60年近く経た今、そうしたかつての郷土史研究の意義を検証すべき時期に来ているのではないか。その意味で、今度の研究大会が、郷土史復権のきっかけとなることを期待したい。

遍路の季節

 めっきり春らしくなって、お遍路さんの姿が目立ってきた。春はお遍路さんの季節である。「四国の春は遍路の鈴の音とともにやって来る」といわれるほどだ。
 最近は「癒しの文化」としても、遍路への関心が高まっている。老若男女を問わず、歩いて霊場を回る人たちも増えてきた。遍路道の保存に熱心に取り組んでいる地域もある。文化遺産として遍路を継承していくのは大切なことだと思う。
 88カ寺を巡る四国遍路が定着したのは江戸時代だが、その歴史は謎に包まれている。古代以来の宗教者の修行や弘法大師信仰が前提となって霊場ネットワークが形成されてきたのだろうが、その成立過程や弘法大師信仰がどのように浸透していったかなど、肝心のことは分かっていない。それだけに諸説があり、興味は尽きない。
 四国にかかわる巡礼は遍路だけではない。今は行われていないが、六十六部廻国巡礼というのがあった。これは中世に始まり、近世に盛んになった巡礼で、全国66カ国を回って各国の霊場に法華経を納めるもの。徳島では太龍寺とか雲辺寺あたりが霊場になっていた。廻国成就の記念などに建てられた供養塔も、板野町や三好町など県内各地に残っている。また、六十六部廻国、四国遍路、西国三十三カ所などの各種巡礼を一人で成し遂げた人もいた。これら巡礼者たちが地域間交流に果たした役割は、小さくなかったはずだ。その意味からも巡礼の具体像を探り、阿波の歴史に位置づける必要がある。
 そこで県立博物館では、3月22日、主に近畿の巡礼研究者で組織する巡礼研究会や鳴門教育大学とともに、「四国遍路と六十六部」をテーマにした講演会を文化の森・21世紀館イベントホールで開くことにした。四国遍路の成立や弘法大師信仰のあり方、六十六部廻国の事例などについて、県内外の研究者が話す。
 ちなみに、その前日は弘法大師忌(正確には旧暦3月21日だが、ここでは新暦に置き換えた)。遍路を語るのにもっともふさわしい時期でもある。この講演会が、巡礼研究の新たな一歩となることを願っている。

連携する学芸員

 県内の博物館学芸員や図書館司書、アーキビスト(文書館専門職員)らの有志による徳島博物館研究会が、2002年、論文集「地域に生きる博物館」(教育出版センター)を刊行した。博物館と社会の接点、博物館運営のあり方、資料の展示に関する問題など、多岐にわたっており、それぞれに博物館とはいかにあるべきか模索した成果だった。
 学芸員は博物館の専門スタッフである。その専門性は、研究にこそあるといわれる。しかし、博物館の役割や方向性を考えることも、専門性の一要素といえるのではなかろうか。徳島博物館研究会は、その点を軸にした連携活動でもある。
 学芸員の連携は、さまざまなレベルで行われている。2003年3月9、10日に香川県で開かれた第8回四国地区歴史系学芸員・アーキビスト交流集会も、その一つだ。集会のテーマは「町おこしと博物館」。総勢40人が集い、事例報告と討論、現地見学が行われた。
 このような集会があること自体、一般には知られていないだろう。第1回は1996年、徳島市で開かれている。以後毎年、学芸員らの自主活動として四国4県を巡回し、地域と博物館のかかわり、教育普及活動の課題など、いろいろなテーマを議論してきた。来年は徳島県で開かれる予定で、これで3巡目に入る。
 こうした活動の結果、集会発足以前は疎遠だった四国の学芸員の間で、情報交換、調査協力などが活発に行われるようになった。さらに、これが各県内での交流を促すという思わぬ成果ももたらせた。冒頭で触れた徳島博物館研究会も、そうした中で生まれてきたものの一つである。
 個々の博物館、あるいは学芸員一人ひとりにできることは限られている。一方で、余暇の拡大や生涯学習熱への対応など、博物館の課題は増えてきている。それだけに学芸員同士の連携が、今後ますます重要になってきそうだ。

合戦図とイラク戦争

 イラク戦争が始まって以来、テレビの画面には連日、戦場の様子が映し出されてきた。開戦前、米英軍は市民は巻き込まないと宣伝していたが、そんなはずはなく、被災した市民の姿が痛々しかった。
 混乱の中、こんなことが起こった。古代メソポタミア文明の遺産を多数収蔵するイラク国立博物館が略奪の被害に遭い、「ハムラビ法典」を刻み込んだ粘土板などが持ち出されたというのだ。
 人類にとっても損失は大きいし、私自身、博物館に勤めている身だけに、衝撃を受けた。だが、略奪者を非難すれば済むことではない。そもそもこういう事態を招いた原因がどこにあるかが問題だ。略奪などもまた「戦災」というべきだろう。
 ところで、日本の歴史においても、数多くの戦いが繰り返されてきた。県立博物館で開催中の企画展「歴史を決めた戦い―信長の台頭から家康の覇権まで」(2003年4月22日から5月25日まで)では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが戦った四つの合戦を取り上げ、絵画や武器などを展示している。
 これらの合戦は、例えば秀吉や家康らの“英雄”を主役とする政治史的な事件として、また天下統一事業という華々しさをもって説明される。そこには戦場の現実感はない。
 私は同展の展示作業で、合戦を描いた数点の屏風を間近に見た。例えば、「関ヶ原合戦図屏風」(17世紀、大阪歴史博物館蔵)には、負傷して頭から血を流す武士、頭のない裸の死体、切腹する武士の姿などが、生々しく描かれている。あまり注目されない部分だが、そこには合戦の凄惨な現実が浮かび上がっている。
 合戦は、殺し、殺される場だ。合戦図に見られるように、多くの犠牲があった。その意味では、けっして華々しいものではなく、この世に存在した生命が消費されていく舞台であったといえよう。
 合戦図屏風から知る遠い過去の合戦と、テレビなどを通して伝わってくる現代のイラク戦争。多数の犠牲を重ねる光景には、時代を越えて結びつくものを感じるのである。

牟岐大島を歩く

 県立博物館では2002年度から、牟岐大島で調査を行っている。県内の支援や歴史、文化を総合的にとらえるために、ある特定の地域を対象に、専門分野の異なる複数の学芸員が協力して調査活動をすることがあり、今回もその一環だ。こうした活動を重ねることで、データや収蔵資料を充実させていくのだ。
 その牟岐大島は、今は釣りやダイビングのスポットとして知られる無人島だが、江戸時代にはキリシタンの潜入を監視するための番所や、外国船の通行などを知らせるための狼煙場(のろしば)が置かれた。幕末期に漁村も形成されたが、1897(明治30)年には生活難のため、全住民が島を離れた。
 先日も、同僚の学芸員らと現地を訪ねた。今回の主たる課題は、集落景観の把握、番所跡の推定にあった。
 牟岐の漁港から、チャーター船に揺られること30分で島に着く。港から山道を登ると、海に面した一帯に、石垣を築いた住居跡などが多数見られ、集落の形態が確認できる。井戸や祠(ほこら)と思われる施設の跡もある。
 随所に、茶碗、すり鉢、瓦などの破片が散乱している。考古担当学芸員によると、これらの遺物は明治時代のものということだ。島が放棄された時期の生活の痕跡といえるだろう。
 番所の位置については、跡地といわれている地点があるが、確証はない。そこで、港の眺望などの条件から、いくつかの候補地を想定して調べてみたが、それを裏付けるような遺物は見つからない。また、集落に観音堂があったらしいが、その場所も分からない。
 考えてみれば、すでに1世紀以上も前、生活の場としての役割を終えた島だ。今や、そこでの生活を経験した人もいない。分からないことが多いのは当然でもある。
 私たちが知ることのできる「歴史」とは、この地上にあった事実のすべてではない。おそらく、移ろいゆく時間の中で消えるもの、忘れられるものが大半だろう。牟岐大島を歩いて、そんなことをあらためて思い知らされた。

“鬼”の正体

 アジアを中心に広まった新型肺炎SARSは、その急激な流行と原因の不可解さが相まって、各国に恐怖を持たらした。海外旅行の激減を含め、経済的な影響も大きかったが、世界保健機関(WHO)はようやく事実上の「制圧」を宣言した。
 これまでの過程で興味深いのは、日本人の反応だ。最初は他人事のような雰囲気だった。しかし、この病気に感染した台湾の医師が、関西や鳴門などを旅行していたという事実が明らかになったとき、事態は変わった。
 台湾人の宿泊を拒否するホテルや、風聞被害に遭う観光地が出てくる。不安を鎮めようとしているのか、煽ろうとしているのか分からない報道も相次いだ。事実と憶測の境が、次第に不明確になっていったように感じたものだ。
 そこで思い出したのが、吉田兼好の「徒然草」の文章である。ざっとこんな話だ。
 鎌倉時代末期の14世紀、鬼に変身した女性が伊勢国から京都にやって来る、という話が伝わる。京都では、鬼を見ようという人でにぎわう。連日、某所に鬼が現れたという噂が続き、大騒ぎする。それなのに、確かに鬼を見たという人はいなかった―。
 “鬼の出現”という噂に色めき立つ人々の姿は滑稽だが、台湾の医師が去った後に広がった波紋と対比すると、笑えなくなる。
 噂という情報と、現代のマスコミやインターネットなどが流し続ける情報。現代人が手にする情報は増えたし、伝達回路も変わったが、情報を冷静に分析する力がなければ、ただ流されるだけとなる。その意味では、中世も今も変わらない。
 このように考えると、兼好が書いた「鬼」の正体とは、噂に右往左往した人々の「心」そのものであったのではないか、とも思えてくる。そうだとすれば、鬼は時代を超えて生き続けているともいえる。兼好が現代に生きていれば、何と言うだろうか。

田んぼのにおい

 国立歴史民俗博物館が、遺跡からの出土品を科学分析した結果、弥生時代の始まりが、これまでの定説より500年さかのぼると発表した。教科書などでは、弥生時代は紀元前3世紀に始まるとされているので、「歴史が書き換えられる」と話題を呼んだ。今後、さまざまな角度から検証されていくことになろう。
 弥生時代は、稲作農耕が基本的な生産活動として定着した時代である。そして、今も私たちの主食は米だから、稲作は本来なら「基幹産業」であってよいが、現実は厳しい。
 かくいう私も、岡山県山間部の父の生家で暮らした小学生の一時期を除き、農作業にかかわったことはない。
 ところが、先日、県立博物館友の会の行事で田植えをするというので、参加させてもらった。この「友の会」は、博物館利用者の学習や親睦などを目的としており、年間を通じて会員向けの行事をしている。ある会員にお世話いただき、農薬などを使わない自然農法による田植えをすることになったのだ。
 作業場所は、草が生い茂った休耕田の一角。最初の仕事は、泥の中に生えた草を根から刈り取ることだった。だが、鎌に泥がからみ、うまく刈れない。汗が目に入り、視界がぼやける。腰が痛む。運動不足の身体にはこたえた。
 草刈りの後は、苗の植え付けだ。田植え定規という道具を使って、間隔を測りながら植え付けていく。初めての経験だった。
 こうした作業の間、焦げ臭いような泥のにおいが鼻を刺激し続けた。自宅で花や木を植えることはあるが、そんなときには感じたことのないものだった。田んぼのにおいなのだ。そう思うと、何ともいえない不思議な感激をおぼえた。
 さて、この田んぼ、農薬を使わないので、放っておけば草だらけになる。実りを迎えるためには、手入れが肝心だと教わった。そろそろ草刈りに行かなくてはいけない。今度は、どんな「におい」が待っているだろうか。

観心十界図に思う

 年間を通じ、全国各地の博物館で多くの展覧会が催されている。今年の夏は、陰陽道(おんみょうどう)やまじない、妖怪(ようかい)などをテーマとするものが流行している。こうしたテーマは私の好みなので、京都、高知、岡山へこれらの展示を見に行った。
 高知と岡山の展覧会では、ともに死後の世界が取り上げられ、関係資料として「観心十界図(かんしんじっかいず)」という絵画が展示されていた。
 この種の資料には、誕生から成長過程をたどる登り坂、続いて老いを経て死に至る下り坂が描かれている。また、画面の大部分には、こうした人生の坂道を歩き終えた魂の行く世界が見られる。針の山や血の池といった地獄の光景などが迫ってくるのだ。一方で、仏に救済される道も描かれている。
 観心十界図は、中世から近世にかけて制作され、視覚的に死後の世界を示す道具として用いられた。熊野比丘尼(くまのびくに)という女性宗教者が絵解きをして、信心を勧めたことはよく知られている。私は格別に信心深いわけではないが、この夏に見た観心十界図には、何ともいえない気分で接した。
 今年の盆が、1月に世を去った父の初盆でもあったから、生命や死、魂というものを考えてしまったのだ。父は2年前に病に冒され、最新の医療、神仏への祈願など、いろいろな方法を講じつつ、生きがいだった仕事を続けたが、力尽きた。満70歳だった。
 仏教語に「生老病死」というものがある。人間として避けられない苦しみの総称である。この世に生を受ければ、老いたり、病を得たりし、やがて死を迎えるのは必定。人生の坂道の歩き方は人それぞれだが、生老病死は、誰もが通らなくてはならない。
 30年もたてば、私自身が、亡くなったときの父の年齢に至る。これからの坂道をどう歩き、どんなふうに老・病を経て死に至るのだろう。ふと考え込んでしまうのだ。

博物館と人権

 徳島県立博物館には、人権研修を目的とする県外からの視察団体がやって来ることがある。 人権に関する博物館などの連絡組織である「人権資料・展示全国ネットワーク」(人権ネット)の加入機関として紹介される機会が多くなったためだが、「人権」を主題とした専門館でないことから、かえって関心をひくらしい。
 ところが、県立博物館には、人権問題に関する展示が常設されているわけではない。そのため、視察者に対しては、常設展のどの部分が人権にかかわるのか説明した上で見学してもらっている。
 そういうと、県立博物館が、どうして人権ネットに加入したり、人権関係の視察を受け入れたりしているのか、疑問に思われるかもしれない。
 県立博物館の人権問題とのかかわりは、こんな経緯をたどっている。最初の取り組みは、1994年度に開催した企画展「人間に光あれ―被差別部落に生きた人びと―」で、徳島県の被差別部落の歴史や文化を取り上げた。
 それ以来、断続的だが、部門展示や企画展等の機会を利用して、人権に関する展示を行ってきている。そのテーマは、差別されてきた人々が担った芸能や、絵画に見る身分在日コリアンの鉱山労働など、多岐に渡る。この夏に開催した企画展「アイヌからのメッセージ」も人権啓発を趣旨に含んでいた。
 最近では、動物担当学芸員が、魚類につけられている差別的な和名を見直すよう学会に提起するなどの動きも行っている。
 このような活動の多くは、人権博物館・資料館などでは、当然のこととして行われるが、「人権」を看板に掲げていない一般的な博物館では、あまり例がない。人権問題やその歴史は、現実的で深刻だ。博物館で扱うには難しいと考えられてきたのだろう。
 各地の歴史系博物館はしばしば、「地域博物館」を標榜する。地域に密着した博物館であろうとするなら、人権に関する問題をも対象化し、地域の歴史をトータルにとらえる努力が求められるはずだ。それも現代の博物館の課題ではないだろうか。

地名

 地名は面白い。その土地の歴史や地形などの特色が反映されているからだ。
 例えば、県文化の森総合公園の所在地は「向寺山(むこうてらやま)」という。「寺山」の対岸にあたるから向寺山。寺山は、中世にその地にあった金剛光寺にちなむ地名といわれる。
 また、徳島市中心部には、城下町の名残を伝える地名が多く、歴史の世界との接点が豊富だ。
 ところが、地名は不変ではない。合併をはじめ、行政上の理由などから、改変されることが多い。歴史的な遺産でもありながら、失われやすいのである。そのため、古文書に見られる村の位置が分からなかったりすることもある。
 以前、名古屋市博物館所蔵「蜂須賀家政判物」に見える、阿波の「きの庄村」の所在地を調べたことがある。今の地名にはないが、現在の阿南市域にあった村で、17世紀半ばごろまでは存続していたらしいことを知った。おそらく、こんな例はたくさんあるはずだ。
 より大きい郡のレベルでも、分割や統合があったため、地名としては消えた場合がある。鎌倉時代から江戸時代初期にあった以西(いさい)郡(現在の徳島市西部、石井町東部、佐那河内村)はその例で、今では徳島市国府町を流れる用水の名称に残るだけだ。
 ところで、今、全国で「平成の大合併」が進んでいる。徳島県でも、いくつかの新しい市や町が誕生することが決まっている。その後に、地名がどう残され、どう変わっていくのか気になるところだ。
 そんな中、脇、美馬、穴吹、木屋平の四町村が合併してできる新市の名称が、「美馬市」になるという報道に接した。「美馬」は古代以来の郡名である。もっとも、美馬市は美馬郡と一致しないし、市の領域になる木屋平村は、かつては麻植郡だった。
 それを差し引いても、歴史をもつ郡名が、地域の新しい歴史に刻まれていくのは、喜ばしい。
 合併は、行政や生活など、さまざまな面で変動を生む。この機会にこそ、地名も含めて、足もとの歴史が見直されていくことを願っている。

模索する博物館

 一昨年、日本を代表する文化遺産の殿堂である東京・京都・奈良の三つの国立博物館が、独立行政法人化された。それ以後、これらの博物館は、何かと話題になる。京都国立博物館の場合、今年だけでも、スターウォーズ展を開いたり、新選組展のポスターデザインを横尾忠則さんに依頼したりと、型破りだ。
 厳しい経済情勢のもと、官・公・民のいずれが設置母体であろうと、博物館には、コスト意識、積極的な存在アピールによる活性化などが要求されている。京都国立博物館の例は、必然でもある。
 各地の博物館でも、活路を拓くための取り組みが盛んだ。その中に、事業評価を行って運営改善と活性化に利用しようとする試みが見られる。
 県立博物館も例外ではなく、外部評価の導入に向けて検討を始めた。館の理念や目標を明確化するとともに、館外の人たちによる実績評価を仰ぐ仕組みをつくろうというのだ。博物館は社会に向けて開かれた施設だから、外からの提言や批判を受けることは有意義だ。
 そうはいっても、博物館活動を評価するのは、実は厄介である。博物館は展示施設だが、展示だけの施設ではない。だから、観覧者数を指標とするのでは一面的すぎる。
 博物館の機能は、展示、資料の収集・保存、調査研究、教育普及と多岐に渡る上、相互に関連しあっている。活動の広がりゆえ、利用の形態も多様だ。展示の観覧をはじめ、講座・実習などへの参加、資料の閲覧、質問など。ホームページ閲覧や電話取材のように、来館しない利用もある。
 したがって、指標は複雑になるし、数値化できるものばかりではない。重要なのは、博物館の存在意義を確認し、それに即した指標を考えることだろう。博物館の原点は、歴史や文化、自然に関する資料を、学術的裏付けをもって集積・公開し、未来へ伝えることだ。それを忘れてはなるまい。
 まだ始まりつつある取り組みだけに、議論と試行錯誤が続くだろう。これは、博物館の行方を模索する道のりでもある。避けては通れないのだと思う。

ふるさと

 12月は、私にとっては節目の月だ。というのも、県に採用され、博物館学芸員となったのが、14年前の12月1日だったからだ。
 この14年は、徳島市在住歴でもある。生まれてこの方、同じ土地に10年以上住んだことはなかったので、徳島はこれまでで最長期間を過ごした土地となった。
 広島県福山市に生まれ、各地を転々としたきた私には、「ふるさと」といえる場所がない。現在、親が住んでいる岡山県御津町が帰省先ではあるが、それは意味が違う。ふとしたときに、自分の足下が空白であるかのように感じられることがある。
 ところで、この14年間、さまざまな人たちと出会った。その中で、伝統文化の再生や継承、忘れられていた地域の価値を発見しつつある人たちが大勢いることを知った。まさに「ふるさと」を守ろうとしているのだ。
 そうした取り組みの中には、行政や研究者、地元の人たちが協力するものもある。
 例として、上勝町に整備されている県立高丸山千年の森の拠点施設「千年の森ふれあい館」がある。地域文化の継承や交流の場となるよう、住民が中心になって、活動の検討が進められている。
 また、きょう(2003年12月13日)、東祖谷山村民俗資料館で開催される四国草原保全研究フォーラムのような例もある。かつて採草地として、地域の生活に利用されていた落合峠の草原を取り上げ、その保全や活用を考える企画だ。研究者や地元住民との間で意見交換などが行われる。
 今後も、地域の資産として、草原が学校教育や観光などに活用されるよう、継続して検討される。
 過疎が進行し、景観や生活文化が解体しつつある土地が多いだけに、「ふるさと」を守る営みは意義深い。地域の歴史を継承し、また創造していくことにほかならないからだ。県立博物館でも、地域の資料を扱うからには、そうした動きとの連携が大切になると思う。
 ちなみに、わが家の4歳の息子は、徳島で生まれ、阿波弁をつかいこなす。その意味では、徳島は彼の「ふるさと」になろう。やがて成長したとき、彼はそこに何を見出すことになるのだろうか。

ゴジラ

 私は幼いころから、ゴジラなどが登場する特撮怪獣映画が好きだ。最近は、あまり映画館に行かないが、ゴジラ映画は別だ。この年末にも、最新作を見に行った。
 ゴジラとそのストーリーは当然、映画のために創造されたものである。だからといってばかにしてはいけない。その理由は、1954(昭和29)年に公開された第1作目の映画「ゴジラ」にさかのぼるとはっきりする。
 この作品では、深海で生き延びていた恐竜が、水爆実験の影響を受けて、核エネルギーを全身に充満させた怪獣ゴジラになったと設定されている。当時のポスターを見ると、「水爆大怪獣」と銘打たれている。
 こうした怪獣が考えられた背景には、核問題を中心とする当時の国際情勢があった。第2次世界大戦後、米ソ両大国を中心として進められた核兵器開発。54年、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験により、日本のマグロ漁船第5福竜丸が被爆した悲劇や、それを契機とした原水爆禁止運動の高揚。
 また、50年代前半には、朝鮮戦争がぼっ発し、日本周辺で核戦争への危機感があったことなども無視できない。
 ともあれ、「水爆大怪獣」は、こうした時代相を負って生まれた。戦争と深くかかわっているのだ。
 暴走する巨大核兵器といってもよいゴジラは、人類が最先端の兵器を開発する過程での変異として誕生するが、通常の兵器では対処できない存在として描かれた。そこで、ゴジラを倒すためには、それを上回る能力をもつ兵器が登場する。
 核武装により平和が維持されるとする核抑止論に基づき、より強力な核兵器開発が繰り返されてきた現実の歴史にも重なるのである。
 このように、第1作目のゴジラの世界は、ただの絵空事というには、あまりにも重い。
 折しも、事実上、戦時下にあるイラクへの自衛隊派遣が現実化しつつある。憲法改正が取りざたされることも増えた。それだけに、ゴジラの起点に思いを致してみたいのだ。

厄年

 数え42歳の厄年(やくどし)を迎えた。生命や生活が損なわれるようなことが生じやすい年齢なので、身を慎むべしというわけだ。
 それほど意味があるとは思えないが、「厄だ」といわれると、自己暗示にかかるのか、不安になる。ドライブがてら、厄除けの祈願に出かけた。
 寺に着き、祈祷料を納めて札を受け取る。これですむのならありがたいが、気休めにすぎない。いかに自己管理をするかにつきるのだろう。
 厄年という考え方は、古くは平安時代の「源氏物語」や貴族の日記に見られ、恐れられていたことがうかがえる。今では、男性は数えの42歳、女性は同じく33歳が、それぞれに大厄の年齢とされるが、こうした形で定着したのは近世らしい。42は「死に」、33は「さんざん」に通じるからともいう。
 厄年は迷信の一種である。ほかにも、現代に生きている迷信は多い。カレンダーなどに記される六曜(大安、仏滅など、日の吉凶を示すもの)もそうだ。祝い事には、大安の日を選ぶといったことが、珍しくない。
 六曜は陰陽道(おんみょうどう)に由来するが、現在信じられているものは意外に新しく、近代になって定着している。
 近代は、科学の発達した合理主義の時代と思われがちだが、それは一面的である。進化論という科学が、人種差別など社会的不合理を肯定する論理を裏付けたという事実もある。合理性と不合理性が、共存してきたといってよかろう。
 時折、迷信の否定が社会をよくすることになるという意見に接するが、一概に排除すればよいのではない。信じるかどうかも含め、迷信をどう扱うか、一人一人で考えることが大事なのではないだろうか。
 ところで、先日、人間ドックに行ったところ、今までになかった注意を受けた。これが厄年のせいなのかどうかは、分からない。いつまでも若くはないという警告であることは、確かなのだろう。

コレクション

 先日、神戸市立博物館で「大英博物館の至宝展」を見る機会があった。
 大英博物館は、ロンドンにある世界最大級の博物館で、創立以来250年を経ている。
 会場には、古代オリエントをはじめとする、世界各地の考古資料や美術品が展示されている。エジプトのミイラがあれば、レオナルド・ダ・ビンチらの絵画がある。中には、日本で出土した銅鐸もあるなど、とても幅広い。展示点数は約270点だが、それは700万点を越える収蔵品のごく一部だ。
 いうまでもなく、これほどのコレクションは、短期間にできあがったのではない。多くの人の存在と、250年という時間とがもたらしたものだ。博物館にとって、蓄積がいかに大切か教えてくれる。
 同じ日、兵庫県三田市にある兵庫県立人と自然の博物館を訪ねた。常設展にある「ナチュラリストの幻郷」というコーナーが印象的だった。
 寄贈コレクションとその意義を紹介しているが、コレクションの内容だけではなく、それを作った人物についても詳しい。例えば、ある鳥類研究者の収集標本の展示では、その人の研究内容や道具などにも触れられており、コレクションの個性がよく分かる。
 大英博物館と兵庫県立人と自然の博物館では、規模も性格も異なる。だが、これらも含め、すべての博物館にとって、コレクションは生命といってよいものだ。
 徳島県立博物館でも、徳島県の歴史や自然に関するものを中心に、資料収集を続けている。現在、館蔵資料は45万点。これのうち、歴史・文化関係の主な寄贈・寄託資料を、今年夏、「収蔵品展―人文コレクション」で紹介する予定だ。
 こうした資料収集は、博物館が独力でできるわけではない。県民はじめ、さまざまな人の理解と協力があって、初めて成り立つ。コレクションを充実させるということは、そうした「つながり」を保ち、広げることにほかならないのだと思う。

 

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