木簡【館蔵品紹介】

考古担当 高島芳弘

木簡(もっかん)は細長く薄い木の札に、墨で文字の書かれたものです。百代、中世、近世と使われていましたが、古代遺跡からの出土例が多く知られています。

木簡の複製品

木簡の複製品

木簡に書かれている内容は、命令や記録、字の練習や落書き、都に納められた税の荷札や付札などがあります。
木簡は用が済めば廃棄(はいき)されてしまうもので、ごみ捨て穴や溝(みぞ)などから出土しています。紙の文書にはみられない生の記録が読みとれることがあり、貴重な資料となります。

木簡が注目されるようになったのは、1961 (昭和36)年に奈良の都、平城宮(へいじょうきゅう)の役所跡からまとまって出土したことがきっかけでした。以後、平城宮をはじめ藤原宮(ふじわらきゅう)、長岡京(ながおかきょう)、平安京などの古代の都から多く発見されています。最近では、平城京の長屋王邸(ながやおうてい)や二条大路(にじようおおじ)から10万点を越える木簡が発見され、たいへんな話題となりました。

徳島県では、中世の呪符木簡(じゅふもっかん)が発見されています。しかし、古代の木簡は、国府、国分寺、国分尼寺などの調査が行われているにもかかわらず、木簡と断定できるものは見つかっていません。
博物館では、古代の文字資料の展示を充実させるために、平城宮などで出土した木簡の複製品を作っています(写真)。これらの大半は、古代の阿波から都に税として納められた荷につけられた荷札です。

これらの荷札からは、税の種類、税として納められた荷の内容、郡名や郷名などの地名、その地域にすんでいた氏族や個人の名前までわかります。

中央下の木簡は板野評と書かれており、藤原宮出土です。藤原宮から出土した木簡の地名には、『郡(こおり)』に相当するものとして『評(こおり)』という字が使われています。文献上では大化の改新の詔(みことのり)(646年)によって地方行政組織として『郡』がおかれたとされてきましたが、木簡の発見によって、701年制定の大宝令が施行されるまでは『郡』ではなく『評』がおかれていたことが明らかになったのです。

また、その上の木簡には石井郷と書かれています。これは延喜式(えんきしき)などの文献にはみられない地名なので、地名の消長を考えるひとつの手がかりとなります。
阿波国からは、さまざまな品物が都に送られていましたが、労役にかわる庸(よう)としては米が多く、特産品を納める調(ちょう)や贄(にえ)としては、鰹(かつお)、ワカメ、鮑(あわび)、年魚(あゆ)、猪脯(ちょほ)(イノシシの干し肉)などが見られます。

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