博物館ニューストップページ博物館ニュース031(1998年6月25日発行)Q.徳島市佐古の浄水場にあるとい・・・(QandA)

Q.徳島市佐古の浄水場にあるという縄文~弥生時代の遺跡のことを教えてください。【レファレンスQ&A】

考古担当 高島芳弘

Q.徳島市佐古の浄水場にあるという縄文~弥生時代の遺跡のことを教えてください。

A 佐古(さこ)の浄水場(じょうすいじょう)にある遺跡(浄水場遺跡) は三谷(みたに)遺跡とも呼ばれ、縄文時代から近世にかけての遺跡として知られています。最初にこの遺跡の内容が明らかになったのは、1924年10月に行われた徳島市の水道濾過(ろか)池の掘削工事のときでした。このときに地下の粘土層から見つかったのは、縄文時代の貝塚や、縄文~弥生時代の竪穴(たてあな)でした。縄文時代の竪穴と貝塚からは縄文土器や石器(石斧(せきふ)、石槍(せきそう)、石錐(せきすい)、石棒(せきぼう)など)が、弥生時代の竪穴からは弥生土器(瓢箪(ひょうたん)形の壺など)や石器(石斧、石槌(いしづち)、石臼(いしうす)など)が発見されました。そのほかにも、楠(くすのき)の大木をくりぬいて造られた長さ4.5mくらいの丸木船と思われるものも発掘されました。この発掘品については、現場へ足を運んだ鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)博士(徳島市出身の考古学民族学者)が、大阪毎日新聞紙上に「阿波徳島の原始独木船」いう表題の記事を数日にわたって掲載したこともあり、大いに注目されました。
しかしながら、このときに浄水場遺跡から発見された資料については散逸(さんいつ)してしまい、現在どこにあるのかわかっていません。当時、遺物が発見された付近には、西欧風の煉瓦(れんが)づくりの建物が建てられ現在に至っています(図1)。

図1_1924年の調査後に立てられた佐古浄水場

図1_1924年の調査後に立てられた佐古浄水場

その後、この遺跡は最近まで調査されることなく眠ってきましたが、水道局の拡張工事のため、1990・1991年の2年間にわたって徳島市教育委員会が発掘調査を行いました(図2)。じつにほぼ70年ぶりの調査となリました。

図2 1990年の貝塚の調査風景

図2 1990年の貝塚の調査風景

この発掘では、地表から1.9m掘り下げたところから、弥生時代中期~江戸時代の建物、土坑(どこう)、溝などやそれらに伴う遺物が発見されました。さらにそこから0.3~O.8m掘り下げたところで、縄文時代晩期~弥生時代前期の小さな貝塚が3箇所見っかりました。貝殻の大部分はヤマトシジミとハマグリでした。これらは河口や内湾(ないわん)の 干潟(ひがた)にすんでいる貝です。その中に混じって、おびただしい量の縄文土器、弥生土器、石器、骨角器(こっかくき)、魚、骨、獣骨(シ力・イノシシ)などが見つかりました。炭化したドングリやコメ、埋葬された7体のイヌの遺骸なども発見されました。
貝塚部分の調査では、掘り上げた貝混じりの土はすべて採集され、フルイを使った洗浄が行われました。その結果、相当小さな魚骨や骨角器なども採集することに成功しています。これらの資料を調べることによって、縄文時代から弥生時代への移リ変わりの時代(約2300年前)に徳島に住んでいた人々のくらしぶりが徐々にわかってくるのではないかと考えています。

最近になって、徳島県でも沖積(ちゅうせき)低地での発掘調査が進み、縄文時代後期以降の遺跡の発見例や調査例が増えてきています。しかし、他地域に比べると縄文時代の遺跡は少ないのが実状です。とくに貝塚に関しては、この浄水場遺跡以外には、徳島市の城山貝塚と鳴門市の森崎貝塚が知られているくらいです。
約70年前に調査され、詳しい内容がわからなくなっていた佐古浄水場遺跡について、再び調査が行われ、貝塚が確認されたことには大きな意義があると思われます。

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