阿波国徳嶋城之図(あわこくとくしまじょうのず)【館蔵品紹介】

歴史担当 山川浩實

阿波国徳島城は、1585年(天正13)、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が、父・正勝(まさかつ)の軍功により、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から阿波一国を与えられ、その翌年築城したものです。城地は吉野川のデルタ地帯で、水軍の配置を考慮した紀伊水道沿いの渭津(いのつ)を選びました。築城は天然の地形を巧みに利用し、助任川(すけとうがわ)と寺島川(現・JR四国)を自然の内堀とし、新町川や鮎喰(あくい)川などを自然の外堀に引用しました。徳島城は、のち拡張され段階的に近世城郭(じょうかく)として充実されていきました。そして徳島城は、江戸時代を通じて、阿波の国を支配する拠点として、重要な役割を果たしました。

図1阿波園徳嶋城之図。

図1阿波園徳嶋城之図。

幕府の隠密によって作成されたと考えられる徳島城の城絵図。天守閣の高さをはじめ、本丸北面の石垣が、極めて鉄壁であることなどが記されている。制作年不詳。

 

城絵図は、築城や城郭の修理をはじめ、藩の政治的必要性や徳川幕府への提出など、目的に応じて各種の絵図が作成されました。図1の絵図は、徳島城とその城下町の概要が記載されており、作成者は幕府の隠密(おんみつ)と考えられます。

なぜ、幕府の隠密が徳島城を探索し、城絵図を作成する必要があったのでしょうか?幕府は全国の大名を統制するため、その基本法である武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定し、違反者には厳罰(げんばつ)で臨みました。そのため幕府は、全国の大名領に隠密を派遣し、違反事項を摘発(てきはつ)させました。特に、大名の城郭修理にあたって、幕府は隠密をただちに派遣し、その様子を探索させたと言われます。

この城絵図は、隠密が徳島城とその城下町の様子を探索したことを示す記載が見られます。たとえば、天守閣(てんしゅかく)の高さをはじめ、本丸付近の背後(北面)を「大堅固(だいけんご)」と記載していることなどです。通常、城絵図は築城の設計図などは例外として、城郭の防衛上から、天守閣の高さや城壁の鉄壁さを記載することはほとんどありません。諸大名が幕府に提出した最も資料的価値の高い「正保(しょうほう)城絵図」中の「阿波国徳嶋城之図」(国立公文書館蔵)にも、こうした記載がありません。したがって、図1の城絵図は幕府の隠密によって作成されたことが考えられます。その目的は、徳島藩が実施した城郭の石垣修理が、幕府の制限内かどうかを探索するためと考えられます。総図には、修理箇所と思われる石垣が黒く塗りつぶされており、その様子を探索したことが推察されます。

なお、幕府の隠密が徳島城を探索し、作成した城絵図は、当館所蔵のもの以外に1627年(寛永4)に作成された「阿波国徳嶋城図」(滋賀県水口(みなくち)町立図書館蔵)が残っています

カテゴリー

ページトップに戻る