博物館ニューストップページ博物館ニュース026(1997年3月25日発行)鳴門海峡にのぞむ漁業と製塩のムラ-亀浦遺跡(026号CultureClub)

鳴門海峡にのぞむ漁業と製塩のムラー亀浦遺跡一【CultureClub】

考古担当 高島芳弘

はじめに

縄文時代は狩りと漁、弥生時代は米づくりという図式で理解する考え方はまだまだ根強く、弥生時代以降の生業の話をする場合、狩りや漁は米づくりほどには大きく取り上げられませんでした。しかし、西日本では弥生時代になって土鍾を使った網漁、タコ壺漁、土器製塩などが新たに発展したことも事実です。

漁業を取り上げる場合に、当時のごみ捨て場である貝塚から出土する貝や獣骨・魚骨などの食べ力スから狩りや漁の対象となった動物を推定する方法と、石鍾・土錘、釣リ針、ヤス・モリ、製塩土器などから漁法を復元する方法とがあります。
徳島県の場合、どちらの方法をとるにしても資料が少なく、そのうえ遺跡は県北東部の鳴門市から徳島市にかけての海岸部に集中しています。

昨年の8月の下旬、当館の天羽副館長が徳島県の漁業史関連の調査で亀浦漁港付近を歩いている時に、偶然に亀浦遺跡を発見しました。この遺跡も県北東部の遺跡ですが、新たな例を加えるということでここに紹介します。

遺跡の立地と調査経過

亀浦遺跡は鳴門市鳴門町土佐泊福池に所在し、南に向かつて伸びる砂嘴(さし)とこれに囲まれた入り江に立地しています(図1)。遺物は工事によって入り江の海底から浚渫(しゅんせつ)された盛り土の中からたくさん見つかりました。また入り江の海底でも遺物は確認できます。海面下の遺跡として大変めずらしい例となります。

図1 亀浦遺跡の遠景。

図1 亀浦遺跡の遠景。

 

遺跡を発見した時に多量の遺物を採集したほか、後に鳴門市教育委員会と共同で数回の表面採集を行いました。さらに鳴門市教育委員会は、砂嘴部分で発掘調査を行いました。

採集遺物

採集された遺物は土器・陶磁器類と石鏃などの剥片石器、石鍾・土錘、製塩土器などです。ここでは土器と土錘、製塩土器について簡単に紹介しておきます。

土器・陶磁器類で多いのは縄文土器です。胴部に稜(りょう)をもち、口縁が外に反り返った浅鉢と、突帯文の深鉢が大部分で、縄文時代晩期の中ごろから後半のものと考えられます。

弥生土器、土師器(はじき)、須恵器(すえき)も採集されましたが、量が少なく胴部の細片ばかりで詳しい時期がほとんどわかリません。土錘や製塩土器などが盛んに使われていた弥生時代や古墳時代の土器が少ないのはひじように残念です。ほかに、中世の瓦器椀(がきわん)、18世紀中葉から後半の肥前染付、19世紀の大谷焼きなども採集されました。
土鍾は網の重りとして使われます。網そのものはまったく出土例がなく、網の規模や構造などは詳しくわかりませんが、引き網や刺し網の重りとして使われていたのでしょう。

亀浦遺跡では合計30点ほどの土錘が発見されており、溝を持つものと管状のものがあります(図2)。溝を持つものは大形で、管状のものは形と大きさで3タイプに分けられます。一つは大形で両端を平坦に切り落としているもの、もう一つは大形で両端に丸みのあるもの、三つめは小形で断面が紡錘形のものです。これらは弥生時代以降に使われたものと考えられますが、詳しい時期は不明です。
製塩には海水を濃縮する採鹹(さいかん)と、これを煮つめる煎熬(せんごう)の過程があります。製塩土器はこの煎熬の時に使われた土器です。瀬戸内では、弥生時代中期に土器製塩がはじまり、平安時代まで続けられました。時期によって製塩土器の形が異なり、弥生時代中期~古墳時代前半には逆円錐形やワイングラス状の胴部に脚台を持つものが使われ、5世紀後半から丸底の深鉢が使い始められました。

図2 土錘(網のおもり)

図2 土錘(網のおもり)

 

亀浦遺跡の製塩土器(図3)は、底部破片で見ると、すべて脚台を持つもので胴部はほとんど失われています。しっかリと踏ん張りの利いた脚台のほかに薄くきゃしゃなもの、脚台の低くなったものもあります。しっかリとした脚台を持つものは外面にタタキ、内面にハケメが施される場合があります。亀浦遺跡から出土した脚台を持つ製塩土器は弥生時代終末~古墳時代中ごろのものと思われます。
製塩遺跡では、製塩炉とともに大量に廃棄された製塩土器が発見されます。亀浦遺跡からは、このような状態で製塩土器が見つかっていないので、ここで大規模な土器製塩を行っていたとは断定できません。しかし、入り江対岸にある古墳時代後期の製塩遺跡である福池遺跡に先行する製塩遺跡である可能性もあり注目に値します。

図3製塩土器(濃縮した海水を煮詰める)

図3製塩土器(濃縮した海水を煮詰める)

漁業遺跡と古墳群

鳴門海峡付近にはほかにもいくつか漁業遺跡が知られており、その近くの丘陵には遺跡に対応するように古墳群がつくられています。徳島では日出(ひうで)湾に面した日出遺跡-日出古墳群が有名です。また、淡路島の西淡町伊毘(いび)には、製塩遺跡である伊毘遺跡に対応するように鎧崎(よろいざき)古墳群・しだまる古墳群、沖ノ島古墳群がつくられています。

沖ノ島古墳群は横穴式石室と小竪穴石室あわせて20基ほどからなる群集墳です。ここには釣り針、土錘、軽石製浮子、タコ壺形土製品などが副葬されており、海を生業の場とする海人の墓であることがよくわかります。鳴門海峡に面した古墳の多くは沖ノ島古墳群と同じように製塩や漁業にたずさわった海人の墓であったのでしょう。

おわりに

亀浦遺跡の発見によって、縄文時代晩期中ごろにはすでにここに人がすみ始めたこと、弥生時代以降になって網漁業が行われ,さらに土器製塩も行われるようになった可能性があることがわかりました。また、鳴門海峡を挟んで海人による交流があったに違いないと想像しています。
 

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