博物館ニューストップページ博物館ニュース026(1997年3月25日発行)出雲・加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸出土(026号速報)

出雲(いずも)・加茂岩倉(かもいわくら)遺跡から大量の銅鐸(どうたく)出土【速報】

考古・保存科学担当 魚島純一

昨年10月、島根県の加茂岩倉遺跡(大原郡加茂町)から大量の銅鐸が出土したことはまだ記憶に新しいことです(写真1)。銅鐸が出土した場所は、10年ほど前に358本もの銅剣(どうけん)や銅鐸・銅矛(どうほこ)が出土した荒神谷(こうじんだに)遺跡(簸川郡斐川町(ひかわぐんひかわちょう))から約3kmほどしか離れていません。丘陵地にある小さな谷の奥深くに位置する高さ20mほどの斜面のほぽ頂上近くで発掘調査が行われていました(写真2)。現場を見ての第一印象は「なぜこんなところに?」というものでした。

図 1 加茂岩倉遺跡の銅鐸出土状況(加茂町教育委員会発行の絵はがきより)。

図 1 加茂岩倉遺跡の銅鐸出土状況(加茂町教育委員会発行の絵はがきより)。

図2 加茂岩倉遺跡発掘調査現場

図2 加茂岩倉遺跡発掘調査現場

調査が進むにつれて発見された銅鐸の数も増え、最終的には39個となりました。これまで発見されていた銅鐸(約430個)のおよそ1割近くもの銅鐸が一度に同じ場所から見つかったのです。もちろん1力所で見つかった例としては最多です。出土した銅鐸は詳細な調査が行われていますが、すでに多くのことが明かとなってきました。まず、大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納めた入れ子の状態で見つかるものが多いこと、シカやトンボの絵が描かれたものがあること、つり手(鈕(ちゅう))の部分に×印が付けられたものがあること、同笵(どうはん)と呼ばれる兄弟銅鐸が多く確認されたことなどです。

徳島県から見つかった川島銅鐸(写真3、麻植(おえ)郡川島町出土、外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)2区画流水文(りゅうすいもん)銅鐸)も、11号銅鐸と同箔であることが確認されました。同箔銅鐸とは、銅鐸をつくる際に、同じ鋳型(いがた)を使ってつくられた銅鐸です。新聞などで、出雲と阿波の深い交流があったように言われていますが、兄弟銅鐸は、製作地が同じと言うだけで、出雲と阿液の交流を裏付ける直接の証拠にはなりません。

図3 川島銅鐸[複製](原品 辰馬考古資 料館蔵)

図3 川島銅鐸[複製](原品 辰馬考古資 料館蔵)

このように、加茂岩倉銅鐸の発見によってわかった事実と、さらにそこから考えられることには少々誤解があるようです。たとえば、出土した39個の銅鐸は、どのような材料でつくられているか、材料の原産地はどこかなどを調べるため、すべて化学的な分析をされることが決まりました。しかし、分析も万能ではあリませんので、いつつくられたか、どこでつくられたかと言うようなことまではわかりません。
銅鐸は、どのように使われたのか、なぜ埋められたのかなど、いまだに多くの謎(なぞ)を持った遺物(いぶつ)です。加茂岩倉遺跡での銅鐸発見は、いくつかの新たな銅鐸の謎を生み出しましたが、銅鐸の謎を解くためのカギになることは間違いありません。

今後も続けられるさまざまな調査に期待し、慎重に見守りたいと思います。
 

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