歴史散歩 地蔵院古墳ー巨石で築いた石室ー【歴史散歩】
考古担当 天羽利夫
徳島市の中心部から国道192 号線を西へ進み、鮎喰(あくい)橋の1つ手前の信号を左に折れ、県道鮎喰・新浜(しんはま)線を真っ直ぐ南へ向かい、眉山(びざん)の山麓に突きあたると右手に大きな地蔵院池があります。池のすぐ南側には、真言宗の地蔵院(じぞういん)という寺があります。この寺は古くから安産祈願(あんざんきがん)で有名な寺です。この寺の山門をくぐって境内に入ると、すぐ左側に丸く小高く盛り上がったところがあります。ここが、地蔵院古墳(じぞういんこふん)です。所在地は、徳島市名東(みょうどう)町1丁目になります。
図1 地蔵院古墳(右手)
徳島県内では、500 基以上の古墳があるといわれています。最も古い古墳は、今年発掘されて話題を呼んだ鳴門市大麻(おおあさ)町にある西山谷(にしやまたに)2号古墳で、3世紀中頃に造られたと考えられています。そして、最も新しい古墳、つまり古墳時代最後の古墳がこの地蔵院古墳ではないかと考えられています。この古墳が造られたのは7世紀前半と思われます。
図2 石室入口
地蔵院古墳の大きさは直径16 m、高さ3.5 mで、丸く土を盛って造った円墳(えんぷん)です。
古墳の南側に回って見ましょう。大きな石を積み上げた石室(せきしつ)が、ポッカリ口を開けています。大人が立ったまま入れる高さです。入口から少し進むと、格子戸があります。この格子戸(こうしど)は後で付けられたものですが、その位置をよく観察すると左右の壁がここでせり出して狭(せま)くなっています。この場所は玄門部(げんもんぶ)と呼び、羨道(せんどう)と呼ぶ石室(せきしつ)の入口部分と奥の死者を安置する玄室(げんしつ)とを分ける境にあたります。埋葬(まいそう)が終わると、この部分に石を積み上げたり、石や木の板でここを塞(ふさ)ぎます。
格子戸から中は暗くてよく見えませんが、しばらくすると目が慣(な)れてうっすらと見えるようになります。懐中電灯(かいちゅうでんとう)を持っていくとよいでしょう。左右の壁を見ると、大きな石が2段に垂直に積み上げられています。奥の壁を見ると、1枚の大きな石が立っています。天井を見ると、3枚の石が水平に置かれています。玄室の大きさを測って見ると、長さ4.3m、幅2.2 m、高さ2 mもありました。2:1:1の比率で計画的に造られているのがわかります。
この部屋には木棺(もっかん)に納めた死者を安置し、さまざまな品を供(そな)えます。このような石室の場合は、1人だけを埋葬するのではなく、1家族いっしょに葬(ほうむ)るお墓です。2世代・3世代を葬った場合もあります。
この石室のように横側から出入りできる構造の石室を横穴式石室(よこあなしきせきしつ)と呼んでいます。5世紀頃、朝鮮半島から北部九州に伝わったもので、近畿地方へと拡(ひろ)がって行きました。徳島で横穴式石室が造られるようになったのは遅く、6世紀に入ってからのことです。地蔵院古墳の場合は、古くから出入りできる状態になっていたらしく、副葬品(ふくそうひん)など伝わっていません。これほど大きな石ばかりを使って築いた古墳は、県内には見あたりません。
地蔵院古墳の周りには、たくさんの古墳があります。地蔵院池の東側、道沿いに1枚の大きな岩が立っていますが、これも横穴式石室の一部です。また、地蔵院古墳の西側の尾根には節句山(せっくやま)古墳の石棺が見えます。地蔵院の南側山腹にはゴルフ場がありますが、クラブハウスのすぐ南に八人塚(はちにんづか)と呼ぶ積石塚(つみいしづか)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)もあります。地蔵院古墳へは、徳島市バス地蔵院行きを利用すると便利です。