博物館ニューストップページ博物館ニュース041(2000年12月1日発行)新町橋が生まれ変わった(041号情報ボックス)

新町橋(しんまちばし)が生まれ変わった【情報ボックス】

歴史担当 山川浩實

1880 年(明治13)、旧徳島城下の新町橋が木の橋から、鉄の橋に生まれ変わりました。従来の橋は、木の橋であったため洪水(こうずい)のたびに破損(はそん)し、1736 年(元文元)以前は、徳川幕府の許可を得て、たびたび大工事をしなければなりませんでした。新町橋は旧城下の「内の町」と「外の町」とを結ぶ交通の要所でした。しかもこの橋の付近は、商業の中心地であったため、徳島で最初の鉄の橋に架(か)け替(か)えられました。新装なった直後の新町橋を描いた版画(図1)によれば、堅牢(けんろう)な橋の上を行き交う人びとやその周辺の賑(にぎ)わいぶりが描かれています。また、橋が新装なった頃は、文明開化の波が徳島にも押し寄せており、版画から洋風建築や人力車などの急速な普及がうかがわれます。

図 1「徳島県阿波国新町鉄橋之図」(1880年5月30日発行)当館蔵

図 1「徳島県阿波国新町鉄橋之図」(1880年5月30日発行)当館蔵

橋は大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)で鋳造(ちゅうぞう)された鉄の橋材が使用され、長さ29 間(けん)余り(約53│)、幅4間余り(約7.3│)で、夜間には南北の橋詰(づ)めに設置された4基のガス灯に火が灯(とも)りました。夏の夜、人びとは、新町川の清流に映(うつ)る美しい橋の影を楽しんだことと思われます。建築費は13,278円余り(『徳島市史』第3巻)で、現在の価格に換算(かんさん)して、約4億6,000万円余り(明治15年の警察官給与より算定)に相当する膨大(ぼうだい)な費用でした。
新装なった新町橋は、その後、徳島市民に親しまれ、新たな憩(いこ)いの場所となりました。1897 年(明治30)頃の天神祭りの賑わいを描いた版画(図2)によれば、この橋の南に続く天神社の夏祭りで、橋上は新町川を渡御(とぎょ)する御輿(みこし)の見物者で埋め尽くされています。また、徳島に住んだポルトガル人・文豪モラエスもこの橋に親しみ、「新町橋は、この土地のしゃれた場所なのだ。夏の夜、誰もが橋の上に涼みに来る。ぼくもだ。そして、しょっちゅうこの場所を通る」と、祖国・ポルトガルに書き送っています(岡村多希子訳『モラエスの絵葉書書簡』)。

ガス灯に火が灯り、徳島市民に長く親しまれた新町橋は、1945年(昭和20)7月4日、徳島大空襲で焼け落ちてしまいました。まもなく橋は復旧されましたが、1978年(昭和53)、明治の古い橋脚(きょうきゃく)は撤去(てっきょ)され、現在の新町橋に架け替えられました。

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