濱田耕作と徳島【CultureClub】
考古担当 天羽利夫
徳島に生まれ育った先覚者や一時期徳島に住まいをしていた著名人など徳島ゆかりの人物はたくさんいますが、これから紹介する考古学者の濱田耕作が徳島ゆかりの人であることはあまり知られていません。
図1 濱田耕作肖像画 大田喜二郎筆『濱田先生追悼録』より
濱田耕作は、日本の考古学を科学的に体系づけた人で、たくさんの業績をもつ有名な考古学者です。1881(明治14)年、濱田源十郎・うめ子の長男として大阪府に生まれました。1886年、大阪市中之島小学校に入学、その後警察署に勤務する父源十郎の転勤に伴って、山形市や高松市、そして徳島市などの小学校に通いました。1894年大阪府立第一尋常中学校に入学。4年後の1898年、体育の授業中、級友と教師のトラブルに巻き込まれて学校を追放されました。耕作17歳の時でした。耕作は、しかたなく東京の早稲田中学校に転校し、翌年卒業、そして京都の第3高等中学校に入学しました。この間に、徳島出身の鳥居龍蔵と出会ったり、2度目の徳島での生活を送ることになります。
1902年、濱田は東京帝国大学文科大学史学科に入学し、西洋史学を専攻しました。
1905年同大学を卒業、1909年京都帝国大学文科大学の講師となり、日本美術史や考古学概論を教えました。1912 年から3年間、ヨーロッパに留学し、新しい考古学研究の方法を日本に持ち帰りました。1916年、わが国最初の考古学講座が京都帝国大学文科大学に開設され、耕作はその担任となります。1922年、耕作が書いた『通論考古学』は、わが国最初の考古学概説書として高く評価されています。また、この本は、博物館のあり方や役割についても説いた最初のものです。
図2 『通論考古学』全國書房版 1947年
濱田は、宮崎県西都原古墳群や飛鳥石舞台古墳など日本国内の発掘調査を数多く手がけましたが、朝鮮半島の調査なども積極的に行いました。なかでも慶州の金冠塚の発掘は有名です。また、ヨーロッパ各地へも出かけ、考古学だけでなく、美術史の研究者として高い地位を築きました。1937(昭和12)年、京都帝国大学の総長となりましたが、翌年、激務から健康を害して57歳の生涯を閉じました。
徳島で過ごした少年時代
濱田耕作が徳島に住むようになったのは、父源十郎が前任地の香川県から徳島に転勤してきたからです。1891(明治24)年7月、耕作が10歳の時です。一家で徳島に移り住み、耕作は徳島県尋常師範学校付属小学校に転校しました。明治25年2月29日付内閣官報局発行の職員録(岩村武勇・岩村富夫『明治徳島県官員録職員録』徳島県教育会、1969年4月発行)を見ると、「徳島県警察部警部 警務課長兼保安課長 浜田源十郎」の名前があります。しかし、この年の10月には父源十郎は転勤し、耕作は大阪府尋常師範学校付属小学校に転校しました。わずか1年4ヶ月足らずの徳島での生活でしたが、耕作少年にとっては友達もたくさんでき、徳島がとても気に入っていたようです。これから紹介する日誌に表れています。
早稲田中学校に転校することになった耕作は、東京に旅立つ日から日誌を書き始めました。大阪の家族と離れて暮らす寂しさからだったのでしょうか。耕作の日誌は、わずか3冊しか残っていません。日誌には、1898(明治31)年8月23年から翌年11月24日までの生活の様子が書かれています(『濱田耕作(青稜)日誌』岸和田市教育委員会、1989年3月発行)。
この日誌には、徳島に関することがたびたび出てきます。1898年9月1日の日誌には、「去 二十九日父上等御着徳 三十日拝命アリタリト」とあります。また、翌年4月28日の日誌には「父上三重県北牟婁郡長に転せられける」とあります。前掲の明治32年職員録に、「徳島県警察部警部 保安課長兼衛生課長 浜田源十郎」の名前があります。父源十郎が二度目の徳島県勤務を命じられたことがこの資料でわかります。二度目の勤務は、わずか8ヶ月の短い期間でした。耕作が徳島で暮らしたのは、1898年4月16日から6月11日までの間です。
日誌によれば、耕作は、1898年4月9日早稲田中学校の卒業を終え、13日朝、東京・新橋駅を発ち、14日夕方、大阪に到着。大阪に一泊して、翌日夜「勝浦川丸」に乗船し徳島に向かっています。船中での心境を「明日は我徳島にかへるなるべしと思へば いとうれし」とまるで徳島がふるさとであるかのように記しています。翌朝早く目覚め、甲板に出て「余の前にうづくまれるやまを見き 嗚呼そは眉山なるよ山の姿 昔と変らず・・・ 実に七年の前を思ひ出で懐かしさかぎりなかりき」と懐かしみ、福島の港に出迎えにきていた弟妹たちと喜びの再会をしています。両親たちが住まいしていた場所は不明ですが、中洲か富田橋に近い場所ではないかと想像されます。
耕作は、7年前の記憶を呼び戻すかのように翌日から徳島市内を散策します。富田橋、新町橋、大滝山、金比羅神社、忌部神社などさまざまな場所が日誌に登場します。大滝山麓で食べた滝の焼餅の話もあります。リッツンという英国人女性の家に出入りし、その後彼女の勧めで富田橋近くの教会にも何度か出かけています。この日誌を読んでいると、明治30年代の徳島の様子が浮かんできます。
この間、考古学仲間にも出会いました。船場町で材木商を営む曽木嘉五郎を訪ね、土器や石器を見せてもらったりしています。曽木は、同じ船場町に住んでいた鳥居龍蔵と幼なじみで、1888年に鳥居と「徳島人類学材料取調仲間(後に徳島人類学会)」を結成しています。ある日、耕作と曽木は、麻植郡鴨島町森藤付近の古墳の発掘に行こうと約束していましたが、耕作が大阪に引っ越すため忙しくて実現しませんでした。耕作が家族ともども徳島を離れるその日、曽木の勧めで四国人類学会(徳島人類学会の誤りか)に入会したと記しています。
鳥居龍蔵との出会い
早稲田中学校に進んだ耕作は、東京帝国大学人類学教室で開催される東京人類学会の月例会に参加するようになりました。日誌によれば、上京して間もない1898年9月11日の例会を皮切りに、毎月のように参加しています。その3ヶ月前、鳥居龍蔵は東京帝国大学理科大学助手になったばかりでした。翌年2月の例会では、坪井正五郎や鳥居龍蔵らの発表があり、「鳥居氏は日本人・アイヌ人・貝塚時代の人との比較ヲシテ述ベラレケリ」と記しています。『東京人類学会雑誌』によれば、鳥居の発表は「日本石器時代ノ人骨ニ就テ」とあります。例会終了後の雑談で次の日曜日国分寺付近へ石器時代の遺跡を見聞する話がまとまり、鳥居から「君もいき玉はずや」と誘われ、「飛ぶか如くうれしかりき」と喜びをあらわにしています。鳥居とはこれがきっかけで急接近したと思われます。
また、その翌月の例会の記述は興味深いものがあります。鳥居の発表した「石器時代曲玉の発達」に関して、「鳥居氏が曲玉発見の地を隠せられしを 坪井氏はいたく激せられ 『実に実にくやし』と打ちふるひ言われしは 実に思はんけん さはれ 我れ鳥居氏も気の毒に思ひき 坪井氏は後 他の会に行かんとて 且つは 鳥居氏に向いて発せる言の過激なりしを謝せられき」と書いています。坪井正五郎は鳥居を人類学に引き入れ、大学に就職を世話した師です。後に坪井が唱えた新石器人コロボックル説をめぐって対立するようになりますが、この時からすでに坪井と鳥居の仲はうまくいっていなかったことがこの日誌でわかります。
その後、鳥居から遠足会の案内をもらい、道中、鳥居と歓談したこと、徳島人類学会への加入を勧められたことなどが日誌に書きつづられています。
濱田耕作の日誌は、わずか1年2ヶ月と短いものですが、その中には徳島のこと、鳥居龍蔵とのことなどが書かれており、ていねいに調べると明治時代の徳島を復元する材料になると思われます。