博物館ニューストップページ博物館ニュース043(2001年6月25日発行)江戸時代初期の蜂須賀家分限帳 -阿波淡路分限録-(043号館蔵品紹介)

江戸時代初期の蜂須賀家分限帳 -阿波淡路分限録-【館蔵品紹介】

歴史担当 山川浩實

分限帳(ぶんげんちょう)は、おもに近世大名が作成した家臣の名簿で、家ごとに家格・役職・石高・居住地などが記されています。こうした名簿は、家臣を統制するための基本的な台帳として、いくつかの種類が作られました。役職別に分けられたものや検索の便のため「いろは」別に分けられたものなどがあります。これは、現在の職員録にあたるもので、大名の家臣団の構成などを調査するためには、きわめて重要な史料です。

蜂須賀家(はちすかけ)の分限帳は、おもに東京の国立史料館と、県下の博物館施設とに収蔵されています。前者は江戸時代全般のもの、後者はおもに江戸時代後期のものです。そのうち当館には、江戸時代初期と後期のものとが収蔵されています。

今回紹介する資料は、江戸時代初期の分限帳で(図1)、県下に存在する分限帳の中では、最も古い時期のものです。これは、名西(みょうざい)郡神領(じんりょう)村(現・神山町)の庄屋大粟家(おおあわけ)に伝えられたもので、最近、当館が購入したものです。

図1 「阿波淡路分限録」の表紙

図1 「阿波淡路分限録」の表紙

奥書によれば、この分限帳は、蜂須賀家の家老賀島家(かしまけ)の家臣であった武市省吾(たけいちしょうご)がある原本から書写したことが分かります。省吾は、故あって主家の賀島家を離れ、1856年(安政3)から神領村に居住しました。この分限帳は、大粟家の依頼により、省吾が書写したものです。さらに奥書には、「右、分限帳ハ延宝(えんぽう)年間ノモノ也」(図3)とあり、17世紀後半の古い時期の分限帳であることが分かります。この時期は蜂須賀家の政治体制が定まった重要な時期で、この頃の家臣団の構成を調査するために、この分限帳は、きわめて重要な資料であると考えられます。

図2 「阿波淡路分限録」第3丁目の家老の記載 17世紀後半、家老の定数化が知られる。

図2 「阿波淡路分限録」第3丁目の家老の記載 17世紀後半、家老の定数化が知られる。

図3 武市省吾が書写した原本の年紀

図3 武市省吾が書写した原本の年紀

これを詳しく分析すると、次のような注目すべき事がらが読み取れます。


・蜂須賀家に直属する家臣団は、江戸時代初期の17世紀後半において、およそ7割がすでに形成されていること。 
・ 行政的役職を中心とする官僚(かんりょう)体制へ移行した社会においても、いぜんとして軍事体制が保たれていること。
・蜂須賀家に直属する総家臣団は、約4千人余であったこと。


 以上のように、この分限帳は、江戸時代初期における蜂須賀家の家臣団の特徴を明確に知ることができます。しかもこれには、徳島本国をはじめ、分国である淡路(あわじ)国、ならびに江戸に派遣された蜂須賀家の大部分の家臣が記載されています。すなわち、17世紀後半の古い時期で、京都・大坂派遣の家臣を除く蜂須賀家の大部分の家臣が記載された分限帳は、現在、これ以外には、まったく存在しません。この資料は、今後当館において、蜂須賀家家臣団の構成などを比較検討する資料として、広く活用したいと考えています。

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